No.050 - 人文知コミュニケーターにインタビュー!金セッピョル(キム セッピョル)さん

研究者×アーティスト×「弔い」

 

人間文化研究機構(以下、人文機構)は、人と人との共生、自然と人間の調和をめざし、さまざまな角度から人間文化を研究しています。人間文化の研究を深めるうえで、社会と研究現場とのやり取りを重ねていくことが何よりも重要だと考えています。

そこで人文機構では、一般の方々に向けたさまざまな研究交流イベントを開催しているほか、社会と研究者の「双方向コミュニケーション」を目指した人文知コミュニケーターの育成をおこなっています。
人文知コミュニケーターとはどのような人物か?どういった活動を展開しているのか?をシリーズにてお伝えしています。

第3回目は、人間文化研究機構・総合地球環境学研究所金セッピョルさんです。金さんは、2017年から史上初の人文知コミュニケーターとしてさまざまな取り組みをされてきました。その中から、2019年9月16日から3日間にわたって行われた、「弔い」映像研究合宿(可視化・高度化連携事業助成)についてご紹介します。

 

そもそも、研究者とアーティストが一つのテーマのもとに映像作品を持ち寄って、一緒に鑑賞し、議論するというこの企画はどのように生まれたのですか。

ある日、総合地球環境学研究所(以下、地球研)を経由して一通のメールが届きました。地主麻衣子さんというアーティストの方からでした。現代の墓と葬儀について映像作品を制作しようとリサーチを行っていて、たまたま私の論文を読んでくださったとのことでした。そこから対話が始まり、約1年をかけて地主さんの作品制作に色々コメントさせていただくことになりました。

異なる分野同士の対話でお互いに良い刺激を受けることが多く、いつも話は盛り上がりました。そしてついには、完成した地主さんの作品『わたしたちは死んだらどこへ行くのか』と、私が2014年に制作した『We Don’t Need a Grave』を一緒に上映するイベントを企画していただく運びになったんです。作品を通して伝えたい趣旨はお互い似ていたのですが、撮影対象へのアプローチの仕方や表現の仕方などは対照的で、上映会では二つの作品を一緒に上映することでシナジー効果が生まれたように思います。

この経験から、「研究者とアーティストが協働することにどのような意義があるか」、また、そもそも「研究を映像化することにどのような意義があるか」について考えるようになりました。近年、地球研でもアーティストに参画してもらい、研究内容に基づいた映像を制作する機会が増えています。その協働によるシナジー効果がどういうものかという問いは、「可視化・高度化」事業の根幹、つまり「研究を(アーティストとの協働などで)可視化することによって、どのように高度化されるか」に繋がる問題だと思いました。そこで一貫したテーマでみっちり議論することでその意義を言語化してみたいと思い、合宿を主催することになりました。

 

アーティストと研究者がそれぞれの作品を観て抱いた率直な意見(違和感など)を交わす

 

「弔い」をテーマとしたのはどうしてですか。

まず、合宿のきっかけとなった地主さんとの協働作業が、私の研究テーマである「現代の葬儀と死生観」だったからです。私は博士課程まで、お墓を設けず、海や山などに散骨する「自然葬」をする人々について調査し、現代日本社会における死生観について探求してきました。その関係で、歴博の山田慎也教授が代表の科研プロジェクト「現代日本における死者儀礼のゆくえ―生者と死者の共同性の構築をめざして」に分担者として参画させていただいており、そこの共同研究者たちと連携すればお互いにとって有意義なものになるのではと考えました。ただ、「葬儀と死生観」ではなく「弔い」にしたのは、儀礼の場面に限定せず、死に向き合うという行為と観念全般を広く対象にした方がアーティストも参画しやすいと判断したからです。

また、地主さんと話しているうちに、葬儀と死生観にまつわるテーマは人文学と映像制作におけるいくつかの論点を、より鮮明に浮かび上がらせることができることに気づきました。例えば、調査対象・撮影対象へのアプローチのあり方についてですが、調査・撮影するという営みがもつ暴力性は、葬儀という最もプライベートかつ人生において重要な場面においてより際立ちます。それにも関わらず人文学の立場から調査・撮影をすることの意義や、その場合、対象にどうアプローチすればいいかという問題に関する議論は、人文学や映像制作全般に寄与するところが大きいと考えました。

 

全体を貫く「弔いとは何か」という問いを中心に、各セッションでは「変化する弔い、異なる立場から見えてくるもの」、「葬儀を撮るとはどういうことか」、「名前のある骨・名前のない骨:個人の歴史と社会の歴史」、「土の下の世界/非論理性」などさまざまな角度からのディスカッションが繰り広げられましたね。

はい、非常に虚心坦懐なディスカッションで、様々な発見がありました。

まず「変化する弔い、異なる立場から見えてくるもの」では、アーティストと研究者の「知のあり方」の違いがはっきりした、面白いエピソードがありました。詳細は次の通りです。地主さんの作品の中に、都市の霊園で無縁墓が壊されていくシーンがありました。昨今の墓の継承者不在などの原因で撤去されているところだったと思います。地主さんは、これまで終の住処として捉えられてきた墓が壊されていく過程を淡々と映すことで、「私たちは死んだらどこへ行くのか」という問いを、観る側に投げかけているようでした。

しかし葬儀研究者には、地主さんのそのような意図が全く通じなかったそうです。なぜなら、そのシーンで壊されていたのは「〇〇家先祖代々の墓」と刻まれた暮石でも、遺骨が収まっている石室でもなく、墓を取り囲んでいる外構石だったからです。研究者は「墓が壊されている」のではなく、「(あまり大事ではない)墓の外構石が壊されている」と受け取ったため、何も感じなかったようでした。それに対してアーティストは墓の構造に関して詳しい知識を持っていないため、全てが「墓」に見えたのです。

これはエピソードの一つにすぎませんが、研究者の専門知がいかに分節的で、一般社会とかけ離れているかを表しているのではないかと思います。

アーティストが持っている一般社会の視点に関する議論は、「名前のある骨・名前のない骨:個人の歴史と社会の歴史」でも続きました。ここでは、マイノリティーたちの葬送というデリケートな問題について、アーティストがほとんど何の解説も解釈もせず、ただ見たことを淡々と伝えた作品が上映されました。それについて研究者は、「この映像がどのように解釈されるかもわからないのに、よく知らないからとにかく映してOK」ということは「無邪気な暴力」なのではないかと違和感を表しました。アーティストの側からは「よく知らない」ことが一般社会の視点であるため、一般の人々が問題にアプローチするための入り口としての意義がある、また暴力になるからといって伝えないという選択をすることがむしろ暴力なのではないかという意見が上がりました。

お互いの考え方の違いはここで終わりませんでした。「葬儀を撮るとはどういうことか」セッションでは、対象へのアプローチのあり方について議論しました。アーティストは葬儀という場面に入り込むことを暴力と感じて、人を映すのではなく墓地の景観を映すことに止まってしまったといいます。それに対して、長年にわたって葬儀の現場でフィールドワークをしてきた山田教授は、葬儀を撮ることは確かに暴力であるが、そこから関係性を築いていくやり方もあると語りました。葬儀は突然やってくるため、対象との信頼関係を築く間もなく調査と撮影が始まってしまいます。ですが、その家族や地域と長く付き合っていくうちに調査・撮影という行為は暴力ではなくなっていくのだということです。むしろ研究者はその葬儀を最もよく記憶している人であり、葬儀についてわからないことがあると山田教授に聞いてくるといいます。暴力どころか、役立つ存在に変わったということですね。

私たち(映像制作にかかわる者すべて)は作品を一つの完成物と捉えるため、作品完成までの行為を暴力と感じるかもしれませんが、長い目で見るとまた違う関係の築き方が見えてきました。

 

「土の下の世界/非論理性」セッションの一コマ。「存在の反転」について考え中

 

ディスカッションや交流を通してどのような成果が生まれたのか教えてください。

ここまでお話ししてきたように、研究者とアーティストはお互いに違和感を抱くところが多かったです。しかし議論を重ねていくうちに、両者とも同じゴールをもっていることがわかりました。それは、「今の時代に起きていることをできるだけ多くの人々に伝えたい」ということです。つまり、私たちが生きる現代社会におけるさまざまな物事や現象を、それぞれの眼差しで記録し、伝えたいという大きな目標は共通しているのです。研究者とアーティストの協働の余地はまだ多く残されています。

また、協働することの意義も、お互いの違和感を語り合う中である程度見えてきたように思います。研究者の分節的な専門知を、アーティストの視点を取り込むことで一般社会に通じるような形で再文脈化できることがその一つです。研究成果を「わかりやすく」伝えることがコミュニケーションの核心のように言われることが多いですが、今回の議論では、研究者の専門知は一般社会とは異なる、分節的な文脈を持っているのであり、一般社会に研究成果をわかってもらうためにはそれを再文脈化する必要があることが見えてきました。

さらに、アーティストの「無邪気な暴力性」も批判するだけでなく、研究者や調査・撮影対象と協議し調整をはかっていくことで、一般社会との接点を見つけることに活用できるのではないかと考えました。

 

最後に、今後の研究・活動の予定をお聞かせください。

今回の合宿で積み重ねた議論はとても貴重で、今後ますます増えるであろう研究者とアーティストの協働において参考にしていただける内容です。そのため一度きりの合宿で終わらせずに、議論の記録を書籍にまとめ刊行することにしました。2020年4月1日から地球研のHPで公開されます。広く活用されていくことを期待しています。

(聞き手:堀田あゆみ)

 

「弔い」映像研究合宿の概要
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日時:2019年9月16日(月)〜18日(水)
場所:岐阜県揖斐郡揖斐川町 

【上映作品】(上映順)
・金セッピョル/総合地球環境学研究所 2014『We Don’t Need a Grave』
地主麻衣子/作家 2018『わたしたちは(死んだら)どこへ行くのか/第1章 東京の墓地』
・山田慎也/国立歴史民俗博物館 民俗研究映像『地域社会の変容と葬祭業-長野県飯田下伊那地方-』
エンサイクロペディア・シネマグラフィカ(EC)フィルム
『首長の妻の埋葬』、『女の樹上葬』、『貴族とその親族二人の女の葬式』
鄭梨愛/作家
『ある所のある時におけるある一人の話と語り聞かせー。』、『沈睛歌』
・ 地主麻衣子『わたしたちは(死んだら)どこへ行くのか/第5章 名前のない骨』
二藤建人/作家 『存在ー不在の反転について(ポンペイ遺跡の空洞及び自作を参照しながら)』(作品上映とプレゼンテーション)
・ ECフィルム『墓穴掘り』

【ディスカッサント】(敬称略)
金セッピョル、地主麻衣子、土居浩(ものつくり大学)、山田慎也(国立歴史民俗博物館)、ハイン・マレー(総合地球環境学研究所)、鄭梨愛、瓜生大輔(東京大学)、二藤建人、川瀬慈(国立民族学博物館)

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金セッピョル(きむ せっぴょる)さん
人間文化研究機構総合情報発信センター研究員(人文知コミュニケーター)
総合地球環境学研究所 特任助教

韓国出身。総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程修了、文学博士(2016年)。専門分野は文化人類学、葬送儀礼研究、映像人類学。2017年より、現職。