2007年7月にタイのチュラロンコーン大学で 名誉文学博士号を受賞した石井機構長
どんな学問にも定説が生まれる。定説がないと、教科書が書けない。コペルニクス以前の学生は、天道説を教えられて育った。今では地動説が定説になって久しい。最近の例でいえば、わが「歴博」の研究者が、炭素14と年輪年代法の組み合わせによって、弥生時代の開始が実は定説より500年もさかのぼるのではないかという新説を生み出した。
わたくしの研究対象とするタイの歴史でも、19世紀末以来の定説が、つぎつぎと新説によってとってかわられつつある。長らく中部タイのスコータイに比定されてきた漢文史料の「暹」が、実はもっと南のアユタヤではなかったかという新説がその一例である。元代の書『大徳南海志』にみえる「暹国管上水速孤底」という一節がその根拠だ。主語「暹」と目的語「速孤底」が同一であるのはおかしい。
「暹」を「アユタヤ」とする説はたしかに説得的だ。しかしそれは本当に「アユタヤ」とよばれていたのだろうか?こう問いかけたタイの学者がいる。16世紀以前の史料では、「アユタヤ」は「アヨータヤー」の形であらわれる。よく考えてみると「アヨータヤー」は古代インドの「アヨーダヤー」のタイ訛音だが、「アユタヤ」は「不敗の地」を意味する造語で両者は語源を異にする。16世紀のなかば、ビルマ軍によって滅ぼされたタイの都が、独立を回復したときに改名したのが「アユタヤ」ではないか、というのがかれの説である。「アヨータヤー」から「アユタヤ」へというかれの論文が次第に定説となりつつある。
中国南部にいたタイ族が、13世紀以来南下して、今日のタイができた、というのが教科書史観である。スコータイからアユタヤへ、アユタヤからトンブリ、バンコクへという動きを見ると、たしかにタイ族は南進しているようにみえる。ところが最近、「内陸からか、海からか」という新説が登場した。タイ湾沿岸の港市群のなかで、もっとも強力になったアヨータヤーが、次第に内陸にむけて支配領域を拡大し、スコータイをはじめとする「北方諸国」を包摂したのが、今日のタイ王国の原型ではないか、というのが提起された新説である。
ここに学問の面白さがある。定説がうまれ、それが覆される。そして生まれた新説が定説となり、それがまたまったく違った視点の生み出した新説によって覆される。この面白さが、学問の魅力である。最近、高校生が歴史を勉強しなくなったという。地理とならんで「暗記物」という悪名高い「歴史」は、いいかげんにやめにして、原因と結果、事件のプロセスの解明に胸をわくわくさせるような歴史の授業ができないものだろうか。そうすれば、コンピューター・ゲームを楽しむ学生も、歴史の勉強が好きになることうけあいである。
(平成19年8月30日掲載)
※著者の肩書きは掲載時のもの