本機構の国際日本文化研究センター(日文研)が公開しているデータベースに『図録米欧回覧実記』がある。
『米欧回覧実記』は、産声を上げてまもない明治政府が欧米に派遣した「岩倉使節団」の視察報告書である。使節団は、近代国家を目指していた日本の国家使命を帯びて明治4(1871)年11月にアメリカへ旅立ち、ヨーロッパ11カ国をめぐって約2年後の明治6(1873)年9月に帰国する。『実記』は、使節団のメンバーであった久米邦武によって編纂され、明治11(1878)年に発表された。データベースには、『実記』の300点余りの挿絵銅版画がおさめられていて、旅程をたどりながら各地の様子をながめることができる。
古代ローマを研究しているので、イタリアでのローマ遺跡訪問のくだりに興味が向かう。平成17年度に始まった本機構の人間文化研究資源共有化推進事業に携わることになり、研究資源である各機関のインターネット公開データベースをみていて再会した。『実記』にローマ遺跡が紹介されているのを知ったのは15年ほど前になるが、その頃インターネットはまだ身近な存在ではなく、調べ物といえば図書館に出かけていた。ところが、今ではまずインターネットで検索するのが習慣になっている。
さて、ここではイタリアの「那不児(=ナポリ)府の記」からポンペイ遺跡の「古死屍」を選んでみた。ポンペイは、今から1900年ほど前のヴェスヴィオ火山の噴火によって、日常生活の様子を残したまま街ごと埋没した古代ローマ都市で、1748年に発掘が開始された。美しい彫刻や壁画、モザイクなどが次々と発見されると、その評判はまたたく間に広がり、欧米の上流階級の人々が数多く訪れる一大観光スポットとなった。
「古死屍」には、遺跡で発見された犠牲者の石膏型が描かれている。『実記』の挿絵の多くは旅の絵葉書を見ているようで、それだけでも楽しいのだが、遺骸を描いたこの一枚は異色といえる。
ポンペイ遺跡の古死屍 (日文研『図録 米欧回覧実記』データベースより)
ポンペイを襲った火山灰は犠牲者を覆うように降り積もり、最期の姿を保存したまま固まった。肉体が朽ちた後には骨が残り空洞ができる。その空洞に石膏を流し込み、固まったところを掘り出すと「古死屍」のような石膏型ができる。死者の表情や衣服の襞までがあらわれる。この方法は、当時、発掘監督をしていたフィオレッリによって考案された。『実記』には触れられていないが、挿絵にイタリア語で記されている1863年2月5日という日付は、ポンペイ発掘史上とても重要である。石膏型取りに初めて成功した日であり、この「古死屍」はその第一号なのである。
イタリアは1861年に統一され、近代国家への道を歩み始めたばかりだった。フィオレッリは、その申し子のようにして、発掘監督に任命された。それまで宝探し的であった発掘を「科学的」なものにし、イタリアの近代考古学を築いた。石膏型取りもその成果のひとつで、犠牲者の姿が実証的に提示されたのである。
一方で、同じ頃に古代ローマ時代のカタコンベで発見された遺骸は、手厚く葬りなおされていたという。それは自分たちと同じキリスト教徒だからで、ポンペイの犠牲者は異教徒だからこそ石膏型をつくれたという穿った見方もある。また、石膏型が発表されると、彫刻のように鑑賞されることがあったのも事実である。しかし、フィオレッリは出土した美術品も生活用品も遺骸もみな同じ考古資料という立場に立っていた。この見解自体がすでに近代的であり、科学技術をもってして掘り起こした石膏型はまさに近代文明の象徴だったといえる。ちなみに、現代では、石膏だと骨が見えないということで、透明度の高い樹脂を使ったものもある。
使節団がポンペイ遺跡を訪れたのは1873年、石膏型取り成功から10年が経っていた。この時もフィオレッリは発掘責任者だった。『実記』に登場する遺跡の「博学の士」とは、彼のことかもしれない。同じ年、50歳の誕生日を記念して、ナポリの博物館に彼の胸像が立てられている。彼は近代国家イタリアの「英雄」となっていた。
使節団は、日本の近代化に不可欠な鉄道や工場などを視察している。『実記』には、鉄道や舗装道路、煉瓦造りの建物、機械の挿絵が挿絵入りで紹介されている。ポンペイ遺跡でも古代ローマ文明の土木技術である舗装道路や水道設備について関心を寄せた。ポンペイの挿絵には、ほかに街路や円形闘技場、壁画を描いたものがある。犠牲者の生々しい姿を描いた「古死屍」は、古代ローマ時代の証言者として載せられただけで、ほかに意図は含まれていなかったかもしれない。しかし、この一枚の挿絵は、それと同時に、鉄道や機械などの挿絵と同じように近代文明を雄弁に物語ってもいる。
(平成19年10月22日掲載)