散歩道といえば私には、かつて愛犬とたどった比叡山山麓の小径が想い浮かぶ。老衰でその柴犬が他界したあと、ついぞ足を運ぶことがなくなった。散歩そのものが目的の道であるから、他にたどるべき必要があるわけではない。しかし、春にはタラノメが芽ぶき、夏にはそこここに木苺が熟していた。秋にはリンドウや季節はずれのツツジが道端を彩り、冬には白銀に輝く比良山をよく望むことができた。
私は、今作成を進めている論文集に、『大地へのまなざし-歴史地理学の散歩道-』とのタイトルを付した。間もなく刊行の運びとなる。私は歴史地理学を専門としていることもあり、さまざまな地域を扱った私の論文やエッセーが、抜き難く「大地へのまなざし」を有していることは当然としても、副題に散歩道と付したのには私自身の思い入れがある。
研究者の論文ないし著書は、目的に向かうべき長い道筋をたどる過程を記すものだと、私自身は考えている。この道は、遠い目的地へと向かう街道(本来の意味でのhighway)のようなものであり、目的地に結び付かない道は、研究上はむしろ避けるべきものかも知れない。いわゆる街道が、国道や都道府県道となっていることが多いのに対し、このような目的地へと直結しないローカルな道は、かつて里道と称されていた。散歩道としてふさわしいのは、必ずしも街道のような幹線道ではない。むしろ、里道のようなローカルな道にこそ、好ましい道があることが多い。
若葉の薫る散歩道(国指定史跡 白河関跡)
この新しい論文集の収載論文には、「大地へのまなざし」は共通しているにしろ、当面は一つの目的に明確には収斂しないものを選んで収録した。さまざまな機会に、さまざまなテーマの企画に、求められて執筆したものである。執筆のきっかけは受動的ではあるものの、そのテーマについて資料を探索し、思考をめぐらしている時のことを想起すれば、これらの一つ一つが、必ずしも意に満たないとか、切り捨ててよいとかいうものではない。執筆の過程には、むしろ一種の楽しささえあった場合がある。ちょうど、愛犬と散歩道をたどった折の感覚に近い。
歴史地理学を含め、人文学のテーマの多くは、人間の営み、思索と共にある。人間あるいは人間社会にとって伝統的あるいは不変の課題が多いといってもよいであろう。これらは、即効的でもなければ、それに近い意味で実用的でもない。しかし、人間にとってはそれの模索を続けることこそが必要であり、すべての基礎となるべきものであろう。人文学に目的が不要であると思っているわけではない。その過程が重要なのである。
歩道は、それを選ぶ人にとって好ましい道であろう。街道のようにひたすら目的地に向かって歩むものではない。散歩道は、散歩そのものが目的であって、それ以上でも以下でもない。これは、人文学はもとより、さまざまな研究に向けてのトレーニングの過程にも似ているかも知れない。そこには、思いもかけない好ましい景観や野草があるかも知れない。時には目的地への道と続く発見があるかも知れない。しかし、それは結果であり、散歩道をたどる理由ではない。
(平成20年5月21日掲載)