ここ数年、水の研究のおもしろさにすっかり入り込んでしまった。主に米国カリフォルニア州の渇水銀行、アジアの地下水管理政策について研究をしているが、あちこち現地調査やセミナーなどに行くと、とても興味深い話に出会うことがある。ここではそうした話の中から、「水」と「ぶんか」という言葉に合いそうな話を思いつくままに紹介したい。
まずは数年前、とあるセミナーでバグダッド大学の教授から水の話を聞いたときの話である。その教授によると、イラクでは「渇く」という言葉には8つの段階があるという。渇きの程度が低いほうから、Al Atash, Al Thama, Al Sada, Al Ghoullah, Al Louhbah, Al Houyam, Al Ouam, Al Jouadとなる。第6段階のAl Houyamには「情熱的な愛」という別の意味があるほどなので、最後の2段階は推して知るべしである。日本語に「氷」と「つらら」の区別があるように、イラクに住む人々にとって「渇き」は一様ではないのであろう。教授の話は頭で理解しているつもりでも、イラクよりもはるかに水に恵まれた日本に住む私にとって、こうした渇きに対する切実さまで実感として理解するのは大変難しい。
水資源にあまり恵まれていないところといえば、米国西部もそうである。ここに権利没収(forfeiture)という不思議な決まりがある。たとえばカリフォルニア州では水を農業や鉱業といった有益な用途に5年間用いないと、その権利は没収の対象になる恐れがある。未使用の水利権の没収とは少し異なるが、日本でも水利権の見直し更新についての規定がある。だがその見直しまでの期間はもっと長いものであり、使わなければわずか5年で没収の恐れありというのは非常に厳しい。カリフォルニア州の農業関係者に話を聞くと「ここは土良し、日差し良しで、何だって作れる世界最高の農地だ。ただし水があればの話だが」ということをよく耳にする。貴重な水は権利の上にあぐらをかいている者ではなく、もっとそれを何か有益な用途に実際に使う者に回すべきという考えから生まれた規則といわれる。
こうした水に対する切実な思いは、川の水を一滴残らず使い尽くすという考えとどこかで根がつながっている気がしてならない。後に米国大統領となり、またフーバー・ダムに名前を冠することになるH.フーバーがかつて言ったように、“水を保全(conservation)することの真の意味はその利用を禁ずることではない。最大限の利益を生むことなく海に流れてしまう水は、一滴たりといえども社会にとって浪費である”というわけである。こうした水の未使用=「水の浪費」という考えに触れたとき、少し妙な感じがした。我々が普段感じている「水の浪費」と、その内容が大分違うためである。我々が「水の浪費」あるいは「水の無駄使い」という場合、それは5で済むところに10を使うという「非効率」の意味で用いているのであり、「未使用」の意味で用いてはいない。フーバーが言うところの意味は、ちょうど我々が銀座や祇園の真ん中に広大な更地を見つけたときにもつ感覚と似ているのではないだろうか。つまり土地を有効な用途に用いずに遊ばせておくのを、もったいないと見なす感覚である。我々にとって土地が相対的に稀少な資源であるように、米国西部の人々にとって水は相対的に稀少な資源なのである。
しばしば水は社会の存続になくてはならないものと言われるが、そこに住む人々が水に対してどのような感覚をもち、どのように利用しているのかはそれぞれの社会で大きく異なる。人と水の関係、あるいは水を介した人と人の関係、そうしたつながりに潜む「パターン」や「型」、あるいはそれを作る「鋳型そのもの」を、「水」の「ぶんか」と呼ぶならば、その具体的内容を解き明かすことは実に楽しいことである。水は味も香りもないが、水に関心を寄せる研究者にとって、それは実に芳香豊かな味のある題材なのである。
カリフォルニア州中央平野に広がる干草畑
塩類集積という問題もある
カリフォルニア州デービス市近郊
地下水を用いた灌漑の様子
(平成21年8月26日掲載)