人間文化研究機構設立記念 シンポジウム 今なぜ、人間文化か(3/3)
- 長野
- 四人の先生方からお話を承りました。これから、まずは先ほど基調講演をなさいました石井先生、日高先生のお二人からコメントあるいは質問をしていただき、その後、パネリスト間でディスカッションをすることにしたいと思います。
- 石井
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パネリストの先生方、ありがとうございました。とくに永山先生からは、人間文化研究機構は趣味ではいけない、文化は暴力に対するもう一つの抑止力にならなければいけないとして、たいへん励ましをいただいたと同時に、これはたいへんなことになったと思っているわけです。
それに関して、また松井先生が、今のような文明の進みでやっていったら、地球はわずか三千年でだめになってしまうだろうが、文科系の人間はこうした問題を定量的に考えることをあまりしない、とおっしゃった。私はそれはものすごく大事なご指摘と思いました。われわれは「永遠」だとか何とかということを言うのですが、とにかく定量的にものを考えるというのは、今までは恐らく誰もしていないと思います。永遠などというのんきなことを言っている場合ではないでしょう。
さて、人間文化研究機構として、お二人の先生から非常に大きな宿題を頂戴したのですけれども、おっしゃるように放っておいたらものすごく暴力的になります。たとえば中国がどんどん経済発展して、酸性雨が日本に降ってくる。その程度ならいいのですが、地球規模で三千年もたたないような生き方をわれわれはしている。そこにたいへんな責任があるわけです。
そこで私は考えるのですが、たしかにわれわれ、とくに人文系というのは趣味で学問をやっていると怒られることがあるのですけれども、しかし、今日のようなご指摘を受けるということは、自然科学の方からそれだけ期待されているということでもあり、今日やはりこのシンポジウムを開いてよかったと思っています。われわれも社会的に本格的なインパクトを持たなければいけないと強く感じました。
- 日高
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私もご発表の方からいろいろなことを教えていただいたような気がしています。しかし、私自身はそれほど文化といったものに対して期待をしていないのです。
先ほどもお話したように、文化とは単に生き方の問題であって、人間になぜ文化なり、思想なりといったものが必要になったかということを考えてみますと、それもまったく自然科学、あるいは科学技術の話ではなくて、まさに文化の問題だと思います。変なものが生まれては、その変なものが次々にまた変なものを生み出してということが起こっているので、このあたりをいったいどう考えていいか、じつはよくわかりません。ですから、やはり趣味の問題ではなくて、ちゃんと考えるべきだとは思っているのですが、思ってはみても、どのようにすればよいかということは全然わかりません。
- 長野
- 趣味も悪くはないと思いますけれども(笑)、古橋先生、何か反論がございますか。
- 古橋
- 趣味と言われても別にかまわないというか、居直るよりしょうがないのですけれども、永山さんは暴力的なものを抑止するのが文化だとおっしゃったのですね。そういうような力がないものに対して「趣味だ」という言い方でおっしゃったのだと思うのです。
- 永山
- 抑止力がないと趣味だということです。
- 古橋
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そういうことですね。つまり、有用性のなかでものを見ていらっしゃるということになってくるのです。ですから、その考え方の問題は、先ほど技術と科学でおっしゃった問題、つまり、科学で明らかになった自然の法則というものを応用する技術とおっしゃったことと同じになりませんか。
応用レベルというのは有用性のレベルですね。そうすると、僕たちは有用性のなかにいないから科学をやっているということになるのです。形式論理で言えば。
- 永山
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私が言いたいのは、いろいろな意味で今は文科系の学問が理科系に押されている感があることです。そうした意識はおそらく文科系の皆さんが持っていて、圧迫感があると思います。やはりサイエンス、テクノロジーはパワーがありますから、若い人たちはメインなところに行きたがります。それに対して、文科系のほうは昔ながらのやり方では若い人を引きつけられないのではないでしょうか。なにか力で抵抗するような言い方をすることに、私自身じくじたるものがあるのですが。
日本の文化というのは小さな世界、小さな宇宙というのをずっと拾い上げてきました。俳句などは典型的で、小さな世界を文化として見てきたわけです。そうしたバランスは一方で重要なのですけれども、とはいえ、人間文化研究機構という看板を掲げて何ごとかをなしていくわけですから、私はやはり趣味ではなくて学問として成り立つものを求めたいのです。
- 松井
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永山さんのおっしゃるような文脈でいくと、私のほうも趣味の領域に入るかもしれません(笑)。ピュア・サイエンスというのは、基本的に「自然とは何か」を純粋に求めるもので、そこにはなんの価値観も入っていません。結果として、われわれは膨大な知の体系を持ちますけれども、それは宇宙、地球、生命という時空スケールで、「自然とは何なのか」を理解するということだけです。「人間圏のなかでそれをどう利用するか」といったことを考えながらやっているわけではないので、その意味ではまったく趣味的ともいえます。
たとえば電子が発見されたことも、このような社会を築きたいがために発見されたわけではありません。「ニュートリノ」でノーベル賞をお取りになった小柴昌俊さんもよくおっしゃるのですが、ニュートリノがこれからのわれわれの人間圏にどのように使われるようになるのかなどは、誰も考えていません。しかし、今このように電子が使われて、このような社会が築かれたのと同じように将来なんらかの格好でニュートリノが使われて、まったく新しい社会が出現する可能性はあるわけです。
そこで、科学と技術の問題ですが、技術というのは自然の時空スケールをいかに効率化して、人間の時空スケールに適応させるかということですから、人間の頭のなかの欲望みたいなものと密接不可分である。対するピュア・サイエンスのほうは自然を知りたいという単純な欲求でやっているわけですが、言えるのは、これまで「科学」と「技術」と非常にはっきり分かれていたものが、最近はどこまでが科学で、どこまでが技術かわからなくなってきているということです。簡単に割り切れないところが出てきた。そして、それはわれわれの欲望をどう抑制するかというところに結局はかかってくるわけです。これが、人間圏と生物圏を大きく分けている部分だと思うのです。
生物圏というのは生き延びることが最大の目的です。単細胞生物は三十四億六千五百万年もの間、生き延びています。これは戦略としては最高の成功であり、たいへん重要なことです。対照的に、われわれは人間圏をつくってわずか一万年程度で、すでに「われわれはどこへ行くのか」などという議論をしなければいけなくなっている。このような生き方は、生物圏の戦略からすれば明らかに誤っているわけです。
では、その違いは何なのかというと、われわれは何かのために生きているのであって、生き延びるために生きているわけではない。その「何かのために」というところに、まさに文化というのが深く関わっていると思うのです。ただ、われわれの科学系の人間は「自然とは何か」を求めていて、「自然は何のために存在するか」をやっているわけではないので、「何かのために」というところをやってる文科系の方たちに頑張っていただければ(笑)、と思うのです。
- 長野
- 脇田先生は「文化」の問題をどのようにお考えですか。
- 脇田
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私は文化というのは「何を見て文化と見るか」ということの問題だと思っています。
たしかに、文化は趣味だとおっしゃる方もありますが、文化というものは毒があり、恐ろしいものだと思うのです。私はこのところ、文化の政治性ということをやっていて、それを感じるのです。ですから、私は趣味だから無害だとか、「ゆとり」だとか、そういうように単純にはいかないと思うのです。文化も長い時間の過程のなかで毒になったり、そうではなくなったりすると思うのですが、やはり非常に危険なものです。というのも、たとえば、戦争中はみんなが殺しあったり玉砕したりしました。あの背後には文化の刷り込み現象というものがありました。
私は戦争中に小学生でしたから、とても刷り込み現象の恐ろしさを身をもって味わっています。その点、戦争を知らない子供たちの世代とは違います。軍部の統制のもとで、「一億一心、火の玉だ」ということで、みんな戦争に飛び込んでいったのです。もちろん、反対の方も疑問視する方もいたのですが、発言できなかった。
この戦時下の経験は、文化というものの効用を考えるうえで、もっとも顕著な実験室の役割を果たすものだと考えています。文化というものは、それを利用して人心を操作できる恐ろしいものであること、お国のためだと信じて多くの人が死んでいったということ、それはいやいや止むをえず死んだ方もあるでしょうが、それよりもはるかに恐ろしいことだと思うのです。集団心性ということがいわれますが、動物にもあるのでしょうが、その面がもっとも出てくるのが、人間の文化なのではないでしょうか。
私は技術の発展による生産諸力の向上が社会や生活の土台を変えていっていると思いますが、それをどの方向に持っていくかは、善くも悪しくも文化が、その方向を決定していくと思っています。『源氏物語』も、能楽・狂言も、歌舞伎・人形浄瑠璃も、社会動向に大きな役割を持ってきたのです。私は当面、文化の政治性を主として考えています。しかし、それに善悪をつけて、これは恐ろしいからやめにするという具合に単純にはいかないところが問題なのです。
ですから、その意味で、文学の方とか私なども、ときに多少自虐的に自分たちのやっていることは「趣味」だ、無害だと言ったりします。しかし、そのように言いながら、文化がどのような効果を持つかと考えると恐ろしいと思うときがあります。また、技術よりもサイエンスのほうが危険な面を有するものが多いようにも思います。さらに人文社会学でも、文明や文化の進化のなかで絶えずその両面が出てきている。このあたりはやはり大勢の方が関わる研究機構あたりで考えることができればと思います。
- 長野
- 「趣味」という表現が先ほどのパネルでも出てきましたが、これについて古橋先生いかがですか。
- 古橋
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私は趣味で私の仕事をしているわけでは絶対にありません。それは強調しておきたいです。趣味としては小説を読んだり、碁をやったり、映画を見たりしますが、仕事は趣味ではありません。なぜなら、仕事は好きでやっているわけではないからです(笑)。では何かというと、義務感です。日本の文学とは何か、日本の文学はどのように流れてきたのか、そういった問題を明らかにしたいという義務感です。
私の場合はそれをそのまま文化の問題に置き換えていくわけですが、そのように思うのも、自分の仕事が完成したあかつきには、それが自分という個人を超えるからだと思います。超えられないで終わったら、趣味ではないと言いながらもんもんとして死ぬということになるのでしょうけれども。
今のお話のあった文化の問題なのですが、私はどの文化が価値があって、どの文化が価値がないというふうには考えていません。悪い文化などというものは、多分一つもないはずです。第二次大戦中の刷り込みという話ですが、あれもあの時代が持った文化なのです。私たちはある時代に生きていて、「自分が人を殺せるか」となったとき初めていいか悪いかを言えるのではないでしょうか。あの時代の戦争が悪かったとか、あの時代の人たちにだまされたのだという発想は、人間というものに対して傲慢だとも思います。過去というものを今の自分たちの価値観から見ているからです。
文化というのは、ある時代が必然的に作り出すものだと思います。ですから、今の状況に対してわれわれが「悪い、悪い」と言ってもあまり変わらないでしょう。それはやはり、全体の方向がそれを求めているからです。ただ、たとえば先ほど松井さんからうかがった人口問題のお話は私にはちょっとショックだったのですが、そういった資料をはっきり提示して「おかしい」と客観的に訴えることはできると思います。それによって全体的な方向が変わっていけば、まったく別の様相が出てくるかもしれません。
ただ、そうであるにしても、誰かが恣意的に文化を誘導するようなことは絶対にできないと思います。もしそれをしてしまったら、先ほど禁煙問題のことを述べたのはそのような意味からなのですが、あんなものは個人の嗜好の問題なのです。健康問題というならもっと悪いものがたくさんあるに決まっているのに、たばこに対してだけ取り沙汰する、全体の正義のように言う。しかし、そのような発想と、人文科学は暴力の抑止力になれという発想とは、私はけっこう近いような気がしてきました(笑)。
- 永山
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私は要するに、文系的文化の学問自体がもう少し力を持ってほしいと言っているだけです。特に若い人に訴える力を持ってほしいと言っているのです。
私のほうももう少し人間文化のほうに歩み寄った話をしますと、先ほど石井先生の講演でブローデルのことが出ましたが、文明の五つの要件という話のなかで、私はやはり持続性の問題と集合心性、共同主観ともいうのかもしれませんが、この二つが非常に重要だと思います。とくに私は自然科学者として、松井さんと同じく普遍的なものを求めたいという感覚から、長期的に持続するものとはどのようなものなのか、それはどうやって生まれたのか、それはどのように変わるのかということを知りたいのです。
というのは、今、日本人の持っている心性や心持ちが大きく変わる時代だとすれば、それはどの程度の持続で、どのようなかたちで変わっていくのかということを知りたい。日本の自然の変化ということ、それから社会の変化ということを全部含めて、長期的な観点からです。それは日々の流行に比べれば普遍に近いでしょう。そうしたものが何かということを掘り起こしてほしいと思います。
それをうまく解析したからといって、社会がそのとおりになってくれるかどうかはわかりませんが、ある程度将来日本が行くべき方向性、先ほど松井さんがおっしゃった「これからどこに行くのか」という方向性に、少なくともヒントが与えられるのではないかと思います。そうなれば、私はまったく趣味以上のものだと思います。
- 古橋
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そのとおりだと思います。それはわかっています。結局、文化というのは誰かが作り出すようなものではないということを私は言いたかったわけです。
われわれ文科系の人間も、身の回りにあるさまざまな問題に対して、たとえば環境問題にしろ何にしろですが、おっしゃるような意見を切実に感じています。さまざまな問題に対して、現実的な文化として展開するためには何かが必要だと思っているわけです。このシンポジウムの目的も多分そういった部分にあると思います。多くの人たちが漠然と感じている問題をはっきりとした形として提示するためにはどうするか。
その方法の一つとしては、松井さんがおっしゃったような「定量化」という方法があるかと思います。いろいろな試みをしてみることによって、みんながある方向に目を向ける。全員が一つの方向に動くのはあまり好きではないですけども、たとえば環境問題にしろ何にしろ、多くの人が動くような文化を作っていくにはどうするかを考える必要があると思います。
- 松井
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今のご意見に関連して二点申し述べたいと思います。定量化だけでなく、考え方、認識の問題で非常に重要だと私が思っているのは、今日の話にも関係するのですが、普通か特殊かということです。
よく皆さんに考えていただきたいのですが、われわれが住んでいる人間圏、あるいは、形而下の世界では、特殊性ということが非常に重要とみなされるように思います。たとえば資本主義社会などは、まさに特殊性のうえに成り立っているものです。誰もが空気や水よりもダイヤモンドに価値を置く。誰もが空気や水よりもダイヤモンドに価値を置く。ダイヤモンドは特殊だから価値があるのであって、希少性と特殊性です。空気や水は普遍的存在であり一般的ですから、誰もまったく価値を置きません。一方で、形而上の世界、頭の中でいろいろものを考える世界では、特殊性ではなくて普遍性に価値を置いています。
わかってきたことは、宇宙というスケールで見るとわれわれはきわめて特殊であるということです。どうも普遍性を持ちえないのです。地球という惑星も普遍性を持ちえないし、生命も普遍性を持ちえないし、われわれはかなり特殊かもしれません。そのような状況にもかかわらず、われわれは「世界の辺境で普遍を叫ぶ」ようなことをやっている(笑)。宇宙的スケールでは、われわれはそのような奇妙なことをやっています。しかし、われわれが生きている実際の生活では、普遍性ではなく特殊性に価値を置いている。この問題をどう認識し、どう改めるかというのは文化の問題だろうというのが、まず一点です。
もう一つは、このような議論を悠長にやっている時間はないかもしれないということです。というのは、われわれが人間圏を作っていかにして今のような豊かさを手にしたかというと、「時間を早めた」からなのです。今いわれているようなバイオテクノロジーのさまざまな問題、遺伝子操作の問題も何もかも、これまでいわゆる進化として非常に長い時間をかけて変化してきたことを、われわれはたいへん短い時間のうちに変えてしまおうとしているのです。
環境問題も同じで、われわれは人間圏のなかに駆動力を持ったために、地球上の物質循環のスピードを、人間圏がない場合の十万倍ぐらいに速めています。そのようにとにかく時間を早めて、結果として豊かになっているだけなのです。われわれが生きている一年が地球上の物質循環のスピードの十万倍としますと、一年のうちに十万年くらいのスピードで地球が変化しているということです。
人間圏ができたのが一万年前だとすると、一万年を十万倍すれば十億年分に当たります。今こんなに顕著に環境変化が見えるのはそのためなのです。たとえば二十億年ぐらい前に誕生した生物圏は、酸素というものを生み出して地球の大気を変え、環境を変えてしまいました。それと同じような変化を、われわれは時間を早めて起こしているのです。
生命倫理に絡んで出てくるような問題もまったく同じで、われわれが時間を早めているということが根本にあると思います。そこは倫理の問題とか何とかではなくて、物理的に「時間を早める」というこの生き方をどう変えるかです。これは悠長にあと十年も二十年も議論している余地はないように思います。
- 永山
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時間を早めているというのは、実際に確かにそうで、経済原則とは早いもの勝ちなのです。先ほど、私はDNAをこれまでの千倍の速さで読むと言いましたが、これがまさに経済性です。時間は本当に加速度的に早くなっていくのですが、それを後押ししているのはエネルギーの消費量です。私たちの一人一人が一年に使うエネルギーの量は昔の王侯貴族と同じだといいます。だから豊かなのです。安穏としていられるし、楽なのです。ただ、そのことをどうしたら違う方向に振り向けられるかというと、考えれば考えるほど難しい。というのは、一般にはわれわれは経済という競争のなかにありますから。
そこで、私はエネルギーのなかでも物質的なエネルギーではなく、精神エネルギーというものにもう少し時間を使って何かに振り向ければいい、それが文化だろうとずっと思っていたのです。スポーツ選手にしろ音楽家にしろ、上達しようとすればたいへんな時間を使います。その場合、大量のエネルギーを変なものに使っているわけではないですよね。なにかそういう感じなのではないでしょうか。
結局、物質的なエネルギーを猛烈に使って物質的に豊かにして、経済とかいろいろな渦のなかに巻き込まれている現状を変えるものとしては、そのような精神文化の部分、言ってみれば文化的価値を高める方向での時間とエネルギーの使い方、もしくは精神エネルギーの使い方、そういったものをどうすればいいかということではないですか。それしか対抗できないという感じを私は持っているのです。
ただ、それを自分に当てはめたとき、今、猛烈に世界と競合している自分の状況――、これをやめて、リングの上から去って観客側に回れるかというと、なかなか難しいです。クリエーション(創造)の現場にいる人間というのは全体のなかでは一握りだと思うのですが、リングに立った人間はやめられないのです。ボクシングと同じで倒されるまで闘うのです。
このあたりが人間なるものの本質の何かではないかと思ったときに、私自身は出口がなくて、山に行く程度で自分を紛らわしているのですけれども、もうちょっと文化、精神文化のほうから、人間のそうした部分を制御できる何かがあってほしいというのが希望としてあります。
- 長野
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ありがとうございました。人間文化研究機構に携わる者として、今日のお話をもとに考えたいと思っています。シンポジウムで明らかになりました科学技術と人間文化の調和の問題につきましては、人間文化研究機構として五つの機関が一つになったメリットをなんとか生かすかたちで研究を進めていきたいと思います。今日はその大きなエネルギーをいただいたような気がいたします。ご参加くださいました先生、お集まりくださいました方々に厚く御礼申し上げます。