No.028 - 年号と改元についておさえておきたい5つのこと

年号と改元についておさえておきたい5つのこと

 

「平成最後の夏」、「平成最後の◯◯」という表現を耳にすることが多くなりました。天皇陛下が来年(2019年)の4月末に退位されて、5月に皇太子徳仁親王が即位されると「平成」が終わり、新しい「年号」が始まります。皆さんは、年号が千年もの間、中国の古典に由来して名付けられてきたこと、年号を改める「改元」には、リセットする、という意味が込められていたことを知っていますか。

平成の終わりを迎えるにあたり、これだけは知っておきたい年号にまつわる事柄を中央大学文学部の水上雅晴(みずかみ・まさはる)教授に聞いてきました。


年号とはなんでしょうか。

自分の子供の健やかな成長を願って名前をつけるように、日本では時に名前をつけます。このつけた名前を年号と呼びます。日本では1300年以上、途絶えることなく、年号が使われています。

もともと中国の漢(紀元前202〜220年)の時代に、誰が主権者であるか、その時の治世者をアピールするために使われはじめました。その風習が日本にもわたり、中国とは別の独自の年号を自分たちでつけるようになったのです。

 

「平成」、「昭和」、「大正」と年号を遡ると漢字二文字です。年号は漢字二文字でなければいけなかったのでしょうか。

いえ、そんなことはありません。天平の時代(729~749年)には「天平感宝」や「天平勝宝」と漢字四文字で名付けられていたこともありますので、漢字二文字でなければいけなかった、という決まりはありませんでした。しかし、漢字二文字を使う方式が長く踏襲されて現在に至っています。

 

年号を変える改元は、天皇の即位に合わせて行うものなのですか。

明治時代以降は、「一世一元制」といって、天皇の即位に合わせて、改元がなされるようになりました。中国では、明の時代(1368~1644年)からはじまった方式で、日本でも取り入れられました。

しかし、江戸時代までは、天皇の即位以外の理由でも名前をどんどん変えていたのです。たとえば、天災が続いた場合には、縁起が悪いのでリセットするために、年号を変えることが珍しくありませんでした。

 

新しい年号は、どのように決められてきたのでしょうか。

現代の決め方については、情報が限られているのでそれほど詳しくはわかりませんが、数名の有識者に案を出してもらい、ふるいにかけるための議論を行って、決めるというのは今も昔も変わらないと思います。

平安時代中期以降の決め方について紹介すると、朝廷内には文章博士家(もんじょうはかせけ)と呼ばれる家がいくつかありました。文書博士は、漢文で書かれた中国の古典(漢籍)の専門的な知識を持っている役人で、中国古典学の大学教授のような有識者です。

新しい年号を決める際、文章博士たちから、年号の案とその典拠となる漢籍の一節を書いた文章(年号勘文、ねんごうかんもん)が提出されて、どの案がよいかという議論、難陳(なんちん)がなされていました。

公卿が行った難陳の議論は、先例を重視するもので、不吉なことがあったときの文字だから使わない、この文字には悪い意味があるから避ける、といったことが話し合われました。議論の結果、残った候補年号が天皇に報告され、採用されます。

 

「平成」は、国内外、天地の両方が平和であれという願いが込められて、『史記』と『書経』の二つの漢籍を引用したと言われています。年号は必ず漢籍を引用してきたのでしょうか。

そうでもありません。たとえば、珍しい亀を見かけた、というような縁起のよいできごとがあったので「霊亀(れいき)」と名付けられた時代もあれば、銅が取れたので、「和銅(わどう)」と名付けられた時代もありました。年号が使い始められた時の年号は、漢籍の出典を持っていなかったようです。

しかし、年号の先例が蓄積されて、先ほど紹介したような年号の決め方が定式化してくると、漢籍の引用が必須になったと考えられます。当時、圧倒的な先進国であった中国が漢字を使っている。そのような漢字を使って書かれているありがたい漢籍に由来するのであれば、その年号にお墨付きがつく。こういう発想で、漢籍を引用したのです。

余談ですが、次の年号は、中国の書物だけではなく、日本で書かれた書物(国書)も引用したものになるのではないかという報道を見ることがあります。実は最近、江戸時代の難陳の議論を調べていて、年号案の正当性を裏付ける一つの根拠として、『日本書紀』が用いられた事例を発見しました。

そういう意味では、次の年号で国書が引用されることも十分に考えられます。将来的に、「平成」以降の年号は必ずしも漢籍の引用が必須ではなくなるかもしれませんね。これまでも漢籍の引用が当たり前になったり、天皇の即位の時だけ改元されるようになったりと、年号の決め方は変化してきましたから。

 


 

次の年号が国書を引用したものであれば、年号の出典が移り変わる“とき”、年号と改元の歴史の転換点に私たちは立ち会うことになるのかもしれません。

 

 

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「年号勘文」(写)(広橋家文書)(国立歴史民俗博物館所蔵、室町時代 H-63-383-3)
大永8年(1528年)8月20日の年号勘文の写し

 

 

 

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中央大学文学部教授 水上 雅晴
専門分野は中国哲学。清代の考証学を中心とする研究を行っている。北海道で生まれ育ち、北海道大学文学部、同大学院文学研究科博士前期課程修了、同博士後期課程単位取得退学後、北海道大学文学部助手・助教、琉球大学教育学部准教授・教授を経て2015年より現職。

聞き手:高祖歩美

 

 

 

関連リンク:
- 国立歴史民俗博物館 特集展示「年号と朝廷」(2017年9月12日(火)~10月22日(日))
- 歴博国際シンポジウム「年号と東アジアの思想と文化」(2017年10月21日(土)~22日(日))
- 歴史系総合誌『歴博』(特集:年号と朝廷、第208号 2018年5月30日)