No.043 - 山あり谷ありの陸上競技の歴史
山あり谷ありの陸上競技の歴史
ラグビーワールドカップ2019の日本開催、世界陸上選手権ドーハ大会、そして2020年の東京オリンピック・パラリンピックと、スポーツの話題が多い2019年秋。
「スポーツの秋」にちなんで、国際日本文化研究センターの牛村圭教授に日本の陸上競技の起源や変遷についてうかがいました。牛村教授は、大学時代にも陸上運動部の跳躍班に所属し、長年、陸上競技に親しんできました。
日本の陸上競技の起源はどう考えられているのでしょうか。
起源はおそらく2つあります。幕末から明治初期の外国人居留地の外国人が行なっていた競技が次第に伝播したというもの。もうひとつは、海軍兵学寮での運動会です。もちろん英国海軍士官の指導のもとに、ですけど。この2つに日本の陸上競技の始まりがあるのでしょう。
その後、どのようにして本格的に広まるのでしょうか。
明治16年(1883年)に帝国大学(現在の東京大学)で開催された運動会が契機だと考えています。英国からの「お雇い外国人」教師ストレンジ(Frederick W. Strange)が、日本の学生の体力のなさを憂いて、ボート競技やクリケットなど英国流のスポーツを次々と伝授していき、やがて運動会の開催に至り毎年開かれるようになります。運動会とはいうものの、お祭り要素はなく本格的な陸上競技記録会でした。記録が伝わっています。
この時代の陸上競技に何か特徴はありますか。
競技会の形をとってはいましたが、系統的・計画的な練習はしなかった点でしょう。運動会が近づくと、普段は柔道や野球などをしている学生が、3-4週間前から走練習に取り組んで運動会に出て競い合う、その程度でした。それに当時はまだ「陸上競技」という語はなく、「競技」あるいは「陸上運動」と呼称されていたようです。大学生が、そして高等学校生徒が放課後に取り組む類でしたから、義務教育は小学校のみという時代では、一握りの若きエリートたちにのみ許されていたスポーツだったと考えられますね。
またスポーツ科学や理論はほとんどない時代でしたから、自己流の練習や身体作りが横行していました。たとえば、「油抜き法」。たくさん着込んで汗をかき、水分を摂らないことで、身体の中にある余計な脂肪を出す。こうして練習に耐えられる身体を作ってから本格的な練習を始めると効果があると信じられていました。今考えると、健康によくない、というかかなり危険ですよね。
その後の日本の陸上競技はどういう展開を見ましたか?
初参加の1912年のストックホルムオリンピックへ2名の競技者を派遣しますが、惨敗します。その時、16年前の1896年のアテネ大会(第1回オリンピック)の記録を見ると、当時の日本のトップ記録にほぼ匹敵することに気づきます。世界から16年遅れているならば、遅れている分をこれから16年かけて取り戻そうという機運が高まり、大正時代に入ると競技の解説書も次々刊行されます。
そして16年後のアムステルダム大会(1928年)で織田幹雄さんが三段跳びで日本人初の金メダルに輝きます。初参加から16年後に日本の陸上競技界の夢が叶ったのです。続く32年のロサンゼルス大会、36年のベルリン大会で優勝者や入賞者は増えていきます。
戦後は一転して、日本の陸上競技界は低迷しますね。
戦時中は練習がかなわなかったこと、戦後の栄養状況がよくなかったこと、が主因です。加えて、戦後はオリンピックへの出場国が増え、競技人口も増し、戦前に比して競技レベルが向上したことも日本の不振の背景にあります。戦後活躍するアフリカ諸国のほとんどは、戦前は独立前なのでオリンピックとは縁がなく、1930年代の日本にとっては競争相手が限られていたのです。
戦後もすでに70年を過ぎ、2度目の東京五輪を前にした今、戦後の日本陸上競技界の最盛期を迎えられそうで来夏をとても楽しみにしています。
球技とは異なり、自分の身体だけが道具の陸上競技。身体の鍛え方や練習の成果が数値で把握できることが魅力だと牛村教授は話します。競技種目の特性から、鍛えるべき身体の部位を特定し、理想の動きを追求しながら練習に励み、強化していく。日々の積み上げが新しい記録につながります。
地道な努力を続ける姿勢は、陸上競技に関する記述や書物をひとつひとつ読み解いていく牛村先生の研究にも通じているのかもしれません。
(聞き手:高祖歩美)
国際日本文化研究センター 牛村圭教授
比較文学、比較文化論、文明論専攻。東京裁判を文明の視点から考察した研究で知られる。日文研で現在主宰する共同研究では、スポーツが近代日本で担った役割を文明の視点から研究することを課題としている(「文明としてのスポーツ/文化としてのスポーツ」)。東京大学文学部、同大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。博士(学術)。カナダのアルバータ大学客員助教授、明星大学助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、2007年より現職。
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