No.062 - リーダーに聞く『井上章一 国際日本文化研究センター新所長』

リーダーに聞く『井上章一 国際日本文化研究センター新所長』

 

2020年4月、国際日本文化研究センターでは、7代目の所長に井上章一教授を迎えました。井上先生は、小さいころから本を読んだり、絵を描いたりすることが好きな子どもだったそうで、今でも芸事にあこがれを抱いているそうです。街でギターを弾いているお兄ちゃんをうらやましいなぁ、と思う心を残していると言います。そんな井上先生に、建築学科という理系の分野から文系の人文学へ飛び込んだ理由や歴史学や風俗史の魅力、趣味のピアノについて伺いました。

 


 

井上先生は、京都大学工学部の建築学科に進学され、その後、人文学の道へと進まれました。いったんは建築学を志されたものの、人文学に導かれたきっかけは何だったのでしょうか。

大学に入ってから読んだいくつかの人文系の本に感銘を受けて、人文学にあこがれを抱いたことだと思います。特に印象に残っているのが、宮崎市定先生が書かれた「科挙」という本です。中国の宋代までさかのぼる受験競争の歴史を綴った書籍で、大学受験を終えた直後に読んだから今でも印象に残っているのかもしれません。受験生活を経てきた人なら大なり小なり感銘を受ける著作だと思います。それ以来、宮崎先生のファンになり、いろいろと読み、宮崎先生の書き物は大人が納得する歴史書だなと思いました。振り返れば、それ以降、いろいろな人文学の古典といえるような本を読み、人文学にあこがれを抱きました。

工学部にいた私のような学生を人文学にあこがれさせ、誘惑させるような著作を今の人文学者が残せているのか、どうか。考えさせられますね。

 

大学受験後に井上先生が読んだ「科挙―中国の試験地獄」(中央公論社、1946年)。この宮崎市定先生の著作をきっかけに人文学のさまざまな古典を読み漁った。

 

人文学の中でも特に歴史学がおもしろいと感じられたそうですね。歴史学にはどのような魅力を感じておられるのですか。

そうですね。学生時代は、建築学科の中でも建築や美術の歴史をおもしろいと感じていました。人類学者が現代日本とは異なる文化や価値観をもった部族や集落を紹介なさると、現代日本とは仕組みがずいぶん違うものだと、感じられますよね。同じように、日本社会を50年、100年さかのぼると現代日本とは価値観や考え方が全く異なる社会が存在していたことがわかります。そうした事実は、今日を、今を相対化する意味でおもしろいと思っています。

特に、社会の風俗面に注目することで、現代とは異なる価値観や考え方があったことを明確に示せると考えています。たとえば、今お葬式に参列するとほとんどの人は黒い服を着ているでしょう。でも、大正時代ごろのお葬式の写真には、振袖を羽織ったお嬢さんが参列者として写っています。お葬式は大勢の人が集まる場所なので、うちにはこんな娘がいますよとお嫁入りのあっせんをする場所でもありました。今では考えられないですよね。でも、ある時代までの日本社会ではそれが普通だったのです。

 

風俗とはどのようにとらえればよいですか。

数十年ほど続く生活様式ですね。それよりも長い間変わらない社会の習わしやしきたりは民俗かな。4-5年単位、あるいはもう少し短い期間で変わるのが流行です。民俗と流行の中間あたりが風俗ですね。もう一つ例を挙げましょう。明治時代の国会議員たちは、当時の写真を見ると、政府に反対の人も賛成の人も同じようにみなひげを生やしています。しかし、今の国会議員でひげを生やしている人はまずいません。共産党でも自民党でもひげを剃っています。この違いを見て、国会議員のひげの有無には思想を超えた風俗という強い縛りがあると私は考えます。

一般に人文学で近代を論じるときに、なぜひげを生やさなくなったのか、などということは、取るに足らぬ矮小なテーマだと多くの人は思うでしょう。しかし、思想の違いを超えて人の姿を拘束する風俗ほど時代をはっきり語るものはないと思うのです。

 

これまで発表してきた研究成果の中で、労作であったと井上先生が語った著書「パンツが見える。羞恥心の現代史」(朝日新聞社、2002年)。

 

風俗史は人文学の王道のテーマではないため、批判にさらされることも多々あるようですが、そうした批判に心折れずに研究を続けられる原動力はなんでしょうか。

25歳の時に工学部から京都大学の人文科学研究所の助手として移ったときに、これまでとはまったく異なる研究スタイルを目の当たりにして、自分の方向性を決めたことだと思います。たとえば、文久二年の研究会では、文久二年に書かれた公家の日記を正月の一日から十二月末まですべて精査しようとしていました。そして、一日に孝明天皇が四方拝の儀式に出席したという日記もあれば、欠席したという日記もある。なぜだろう、という議論がなされていました。工学部から移ってきた私は、その微細ぶりになじめません。そして、思ったのです。今から背伸びをして、こういう研究姿勢になじむ努力はすまい。そんなことをしても、文転組である私の値打ちはない。自分の興味の赴くままに研究をしようと。たとえば、国会議員はなぜひげを生やさなくなったのか、というふうに。私はこの現象を面白いと思う。そして、私が面白いと思うのだから、同じように面白がる人はいるはずだ。そう根拠のない自信をもつことにしてきました。

偉大な宮崎市定先生になぞらえるのは不遜ですが、受験勉強が終わってすぐの学生に「科挙」という本は面白い読み物でした。同じように、興味本位の私を面白がる人だっているだろうと思うのです。

 

最後に、先生は40代に入ってからピアノを習い始めたそうですね。どういったきっかけですか。

ある老人福祉のつどいで文化講演をした際に、事務局の方との雑談の中で教えてもらいました。モテないおじいさんの典型は、昔は偉かったという自慢話をするおじいさんで、おばあさんから人気のあるのはピアノの弾けるおじいさんだと。元大学教授だったおじいさんは、文化講演の後、今の講演者はこんな文献も読んでいない、筋が通っていない、と批判的なことをよく言う。言外に、自分のほうがかしこい、と。それできらわれる。でも、私のような人間は、若い人の研究発表に臨んで、論理破綻を指摘したりすることが仕事ですよね。職業病としてモテない運命なのです(笑)。ですから、その運命を変えたくてピアノを始めました。

ありがたいことにおっちゃんになってからピアノを始めたので、上達速度がゆっくりで、小さい頃からピアノを習っている人と比べると頭打ちの時期をなかなか迎えません。いまだに成長し続けています。ピアノに向かっていると、取り組んでいる研究テーマが忘れられるので、行き詰まっている時にはよい気分転換になり、結果として研究がはかどります。

 

40代に入ってから始めた趣味のピアノ。今ではお嬢さんよりも上達し、日々成長中。

 

(聞き手:高祖歩美)

 

井上章一予兆s国際日本文化研究センター 井上章一所長
専門は、建築史、風俗史。京都大学工学部建築学科卒業、同大学院修士課程修了。1980年に京都大学人文科学研究所助手、1987年に国際日本文化研究センター助教授、2002年に同教授、2020年4月より現職。