No.076 - リーダーに聞く『木部暢子 人間文化研究機構新機構長』
リーダーに聞く『木部暢子 人間文化研究機構新機構長』
2022年4月より木部暢子氏が人間文化研究機構新機構長に就任されました。ご自身について、そしてこれからの人間文化研究機構、課題、新機構長としての抱負を伺いました。
人間文化研究機構 人間文化研究創発センター
1.子どもの頃から変わらないと思うこと、ご自身の直接の研究以外で興味があることなどについて教えてください。
小学生の頃から合唱をやっています。私が通っていた小学校に、合唱指導に熱心な先生がいて、その先生に誘われてNHK全国学校音楽コンクールに出場しました。それが合唱にはまった最初です。中学校、高校、大学と合唱部に所属し、就職してからも社会人の合唱団に入りました。鹿児島の合唱団では、全日本合唱連盟主催の合唱コンクールに出場して、全国大会で賞をとったこともあります。好きな曲は16世紀から17世紀にかけてのイタリアのマドリガーレです。東京でも合唱団に入りたいと思っているのですが、いかんせん、年齢とともに体力が衰え、思うように声が出せなくなりました。合唱団のみなさんに迷惑をかけては申し訳ないと思い、現在は控えています。
2.ご自身の研究の中で印象に残っているものについて教えてください。
日本各地の方言、特に南九州・奄美の方言の調査・研究を行っています。その中でいちばん印象に残っているのは、鹿児島県十島村(としまむら)(トカラ列島)での調査です。トカラ列島は屋久島と奄美大島の間に点在する島々からなり、2015年の国勢調査によれば、七つの島に756人が住んでいます。私は『十島村誌』の仕事で1991年から1994年にかけて七島すべてを訪れ、方言の調査を行いました。この調査では方言だけでなく、いろいろなことを教えられました。例えば、十島村は第二次世界大戦後、1952年2月までアメリカの占領下に置かれていました。奄美、沖縄のアメリカ統治については多少勉強して知っていましたが、トカラ列島のような小さな島々にも占領という形で戦争の影響が及んだことをこのとき初めて実感しました。また、十島村悪石島では、記憶力抜群のおばあさんに出会いました。このおばあさんは小学校に行っていなくて読み書きができないのですが、何年に疫痢がはやって島の人口が何人から何人に減ったというようなことを鮮明に覚えておられます。文字のない世界では記憶そのものが歴史です。それを体現しているおばあさんに出会い、改めて口承文化と文字文化の関係を考えたことでした。
鹿児島県加計呂麻島にて
3.人間文化研究機構や国語研を外から見ていたときの印象について教えてください。
方言研究の分野は、国立国語研究所なしには語ることができません。国立国語研究所は戦後間もない1948年に設立され、設立当初から共通語化や漢字表記の問題だけでなく、全国の方言の調査とそれに基づく研究を牽引してきました。私自身も全国2400地点の方言を地図にした『日本言語地図』全6巻(1966~1974年)や各地方言の特色を記述した『日本方言の記述的研究』(1959年)などを利用して多くの研究を行ってきました。したがって、国立国語研究所の調査やプロジェクトに参加するということは、大変名誉なことでした。のちに自分が国立国語研究所に勤務するようになるとは、そのときは思ってもみませんでした。それに比べて人間文化研究機構は、研究者にも一般の人にもあまり知られていないように思います。じつは、私も国語研に赴任する前は、人間文化研究機構に対するイメージがほとんどありませんでした。人間文化研究機構は2004年の設立で歴史が浅いからかもしれませんが、これは何とかしなければなりません。
石川県白峰村にて
4.これからの人間文化研究機構、課題、新機構長としての抱負
やはり、人間文化研究機構という名称をもっと研究者や社会に馴染みのあるものにしていくとことが重要だと思います。そのためには、人間文化研究機構を構成している6つの機関としっかり連携をとって、研究や社会への貢献を一緒に進めるような組織運営をしていきたいと思っています。6つの機関はすでに素晴らしい研究の蓄積とその基盤となる膨大なデータを持っています。各機関が持っているこれらの蓄積やデータを結びつけて、新たな研究の展開を生み出すことができればと思います。