No.085 - 人間文化研究と科学技術・政策研究の機関長による意見交換会<前編>
人間文化研究機構 木部暢子 機構長
文部科学省 科学技術・学術政策研究所 佐伯浩治 前所長
2021年4月に施行された科学技術・イノベーション基本法(科学技術基本法からの改正)において、人文・社会科学が振興の対象となりました。今後、人文・社会科学では「知」の蓄積を図りつつ、自然科学の「知」との融合による、人間や社会の総合理解と課題解決に資する「総合知」の創出と活用が重要になります。総合知の前提となる異分野融合もしくは学際研究のヒントを探るべく、木部機構長が自然科学の様々な組織や研究者との交流がある文部科学省 科学技術・学術政策研究所の佐伯所長(当時)をお招きし、2022年11月に意見交換会を開催しました。本意見交換会の前編では、両者がこれまでに取り組まれた異分野融合の事例がテーマです。
・方言コーパス
木部:私は、国立国語研究所(以下「国語研」)にいた時に、共通語ではなく地域に密着した言語の研究をしていて、そういう言語の価値をもっと世の中に訴えたいと思っていました。そうしないと、日本の言語が多様であり、多様であることに価値があるということがなかなか理解されないと思ったからです。
私が鹿児島大学から国語研に移ってから取り組んだ研究のうち異分野と連携した研究に2つのものがあります。1つは方言コーパスの作成です。コーパスとは、たくさんの言語データを使いやすいように検索できる形でシステム化することです。当時、国語研には共通語のコーパスがありましたが、方言のコーパスはありませんでした。それでぜひ方言のコーパスを作りたいと思い、2014年から方言コーパスを作り始めました。コンピューター上で方言がきちんと検索できるようにするためには、私たち人文系の研究者の力だけではとても駄目で、当然、情報学との連携が必須になりました。科学技術・イノベーション基本法への改正と直接結び付くかどうか分かりませんが、とにかく人文学だけで研究がやれる時代ではないということをずっと考えておりましたので、その頃から情報学の力を借り、連携しながら方言コーパスを構築してきました。
方言コーパスが社会にどう貢献するかというと、人文学はすぐに成果が社会の目に見えるような研究ではないので、こういう効果があったとすぐにいうのは難しいですが、私が国語研にいた時に人工知能(以下「AI」)の研究者から「共通語のデータだけではなく、多様なデータを分析することでAIの精度を高めたい」というお申し出があり、幾つかの研究室にデータを差し上げたことがありました。
・ゲノム解析と言語による日本人の起源調査
木部:もう1つの研究は、遺伝学の斎藤成也先生(国立遺伝学研究所)に誘われて、「現代人ゲノム、古代人ゲノム、動植物ゲノムなどのゲノム解析の結果と考古学、言語学の研究をつなぐことで、日本列島に居住していた人類集団の特徴を明らかにしよう」という研究です。遺伝学におけるゲノム解析は、最近とても進んでいます。「ゲノム解析の結果と言語のバリエーションの関係がどうなっているのか」を見ることによって、日本人のルーツを探ろうというプロジェクトです。今年度まで科研費をいただいて実施しています(注 新学術領域研究「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」)。ただ、実際にはデータを突き合わせてすぐに結論が出るということはないので、日本人のルーツを探るといっても難しい部分がありますが、そういう研究が少しずつ始まったことで、私自身は人文学の可能性を広げ、活躍の場が広がったと感じています。
佐伯:まさに人の流れと同じように、言葉の流れが一緒にくっついてくるという考え方ですね。
木部:そうです。
・クローン人間に係る倫理観
佐伯:私の場合、人社系の先生方との関係があったのは生命倫理を担当していた頃でした。1997年にクローン羊が誕生したとの報告があり、同様の技術を使ってクローン人間ができるのではないか、それを禁止すべきとの議論が国際的に起こりました。直感的には禁止すべきとの反応が普通ですが、クローン人間のどこが問題で、どのような規制をかけることが妥当か、は本当に難しい問題でした。例えば、将来自分が病気になった時に臓器を移植するために産み出すという極端な例は否定できますが、幼くして亡くなった子供をどうにかして取り戻したいという思いを持った人が希望する場合に、クローン技術の何がいけないのかというと、議論は難しくなります。実際に、クローン技術を用いた不妊治療計画を公表する団体も出てきていました。
ただ、そうは言っても生まれてくる人の立場を考えた時に、その人が生まれた時から「ある人のコピーでありクローンだ」と言われることは、かけがえのない1つの個人であるその人の尊厳を冒すことになるのではないかという考えが基本にありました。人間の「育種」や「手段化、道具化」にもつながります。また、クローン技術自体は、大規模な施設・設備を必要とするものでは無く、抑止効果もある実効性をもった規制とするために、重い罰のある法的規制が求められました。尊厳を守るためにそこまでの法規制をとることはなかなか難しく、もう一つの論点であった安全性等と絡めて実現しました。このような、「人の誕生の在り方」、「個人とは何か」について突き詰めた議論が必要な際に、理系だけではなかなか議論できません。当時の議論には法学も含めた社会学者の方々、さらには宗教学といった様々な御専門の方に入っていただいて、本当に難しい議論をしました。
更にその時の議論が複雑になった要因として、人の誕生プロセスの始まりである受精卵からES細胞と言われる万能細胞(ヒト胚性幹細胞)を取り出す技術が実現したことがあります。クローン技術はある人の体の細胞の核を未受精卵に移すことで、その核が初期化され受精卵のように変わり、その人と同じ遺伝子を持つ人を生み出す技術です。両者は目的も異なる技術ですが、同じように人の始まりのところを操作する行為であり「どうして一方が駄目で、一方が許されるのか」という複雑な議論となり、大変苦労した思いがあります。
その時に、常日頃からそういう議論ができるような素地がなかなか日本にはないな、と思いました。例えばある宗教の影響が強い国ですと、命の始まりについての考え方があって、そこから受精卵操作への姿勢がみえてきます。日本ではどこに判断基準を設けるのか非常に難しく、社会的な議論もあまり行われていません。そういう議論ができる素地がないと将来の科学は進みにくいなという印象を持ったのがその頃でした。現在ゲノム編集の技術が進んでいますが、どこまでの応用が認められるのか、例えば人の能力を高めることに使っていいのか、といった議論も出てきます。
木部:そうですね。難しい問題ですよね。
佐伯:難しい問題であっても科学技術を前に進める上で、それを社会がどう受け止めるかという相互関係を議論しなければならないだろうという感覚は持ってきました。基本法改正により、自然科学と人文・社会科学がようやく法律的にも1つになったという思いがあります。
・ウェルビーイングの一例
佐伯:できれば文理の融合については、単なる手段としてではなくて、新しいものを共に創る方向になっていただきたいと思います。第6期科学技術・イノベーション基本計画ではウェルビーイングという言葉が何度も出てきますが、「何がウェルビーイングなのか」という、そこの価値を見ていくのは自然科学ではない世界だと思いますね。幸せを測ることはなかなか人文の世界でも難しいと思いますが。
木部:そうですね。
佐伯:人によって違いますし。
木部:大阪の国立民族学博物館(以下「民博」)では、例えば耳の聞こえない方、あるいは目の見えない方、その人たちが博物館で楽しむという特別展「ユニバーサル・ミュージアム――さわる!“触”の大博覧会」を2021年に開催しました。これもウェルビーイングを実現する一つの方法かもしれません。
佐伯: 民博といえば、人文知コミュニケーターとして活躍された大石侑香さん(現・神戸大学)が参加していた「北極域研究推進プロジェクト(ArCS)」の紹介が文理融合の好例としてあります。このArCSは以前私も担当したことがあるのですが、温暖化の影響が強く出る北極域について、さまざまな観測手法を用いてその実態を調査し、北極域の気候変動の解明と環境変化、社会への影響を明らかにしていくプロジェクトです。大石さんはArCSに参加され、北極の環境変化と社会への影響について研究を行い、成果発信として、北極環境学習ツールとなるボードゲーム「The Arctic」を日本科学未来館とともに制作したそうです。文理の協力により、人文科学だけではできなかった、北極域の変化の激しさと複雑な自然と人との相互関係を具体的に表現することが可能となり、中高生を含めた社会への発信した例があります。
佐伯:人文社会科学と自然科学系の研究者が協力して取り組むことにより、見えなかったものが見えてくる。あるいは分からなかったものが確認できるようになってくることがあると思うのですが、それをいかにしてうまく進めるのか、は今後の課題です。まずは出会いの機会を広げるということが大事だと考えます。
(司会:大場 豪 人間文化研究機構 人間文化研究創発センター研究員)
木部 暢子(きべ のぶこ)
人間文化研究機構 機構長
九州大学大学院文学研究科修士課程修了。博士(文学)(九州大学)。鹿児島大学教授、国立国語研究所教授を経て、2022年から現職。専門は言語学、日本語方言学、音韻論, 音声学。
佐伯 浩治(さえき こうじ)
文部科学省 科学技術・学術政策研究所 所長(2023年3月末日まで)
科学技術庁入庁後、内閣府宇宙開発戦略推進事務局審議官や文部科学省研究開発局長、科学技術振興機構(JST)理事を歴任。