人間文化研究機構設立記念 シンポジウム 今なぜ、人間文化か(1/3)
- 長野
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シンポジウム「今なぜ人間文化か」を始めたいと思います。
私ども人間文化研究機構は、一部、社会科学も入っておりますが、主として「人文科学」の研究機関によって構成されております。日高敏隆先生の総合地球環境学研究所だけが少々特色がありますが、その他は純粋な人文科学の基礎研究を第一義とする機関です。
われわれが属しているいわゆる「文科系」というのは、アカデミズム全体、とりわけ「理科系」の方々から見ればかなり地味ですし、抽象的でもあり、何をやっているのかよくわからないという面もあろうかと思います。われわれの言い分からすると、「文化」とはたいへん豊かなものであり、それを地道に研究してどこが悪いという開き直りも半分あるのですが、一方で、これからの人文科学はどうあるべきかと考えた際に、十分心してかからなければならないとも思います。それはいったい何かということを考えるべく、このシンポジウムを企画した次第です。
パネリストには四名の先生をお招きしています。城西国際大学の脇田晴子先生、武蔵大学の古橋信孝先生、東京大学の松井孝典先生、自然科学研究機構岡崎統合バイトサイエンスセンターの永山國昭先生です。このうちお二人が文科系の先生、お二人が理科系の先生で、先ほどの日高先生の講演を引くならば、肛門があるかないかぐらい違ったお考えをおもちだろうと思います。そうした方々にお話をいただくところから、問題の糸口を解きほぐしていければと願っています。
シンポジウムを行うにあたりまして、私のほうから先生方にお話の内容としてお願いしたいことが三つあります。一つは、それぞれの専門分野のなかで、文化、もう少し砕いて言えば人間がしてきたこと、ないし歴史というものがどのように位置づけられているか。もう一つは、やや具体的な話になりますけれども、一つのテーマに対して学際的なアプローチをする場合、「比較」、比べるということが非常に重要な分析概念になると思われます。そこで、比較とはいったいどのような意味であって、かつ何を明らかにしようとするものかという点です。このことは学問がめざすところの特殊性と普遍性の求め方の態度の違い、あるいは全体に対する個とは何であるかという、二つの非常に大きな命題に関わってくると思います。そしてもう一点は、できれば、新しくできたこの人間文化研究機構にどのような研究を期待するかという点に触れていただきたいということです。こうしたことをからめながら、お話をいただければと思います。
まずは四人の先生に順々に発表していただいてから、ディスカッションに進みたいと思います。
- 長野
- それでは、脇田晴子先生からお願いいたします。ご専門は日本中世史で、差別の問題、芸能の問題等も含めて、とくに女性史研究でたいへん多くの業績を出しておられます。
- 脇田
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私は二〇〇四年三月まで日高先生が学長をされていた滋賀県立大学の「人間文化学部」に勤めていました。この名称に対して私が「文化は人間が作ったのに決まっているのに、なぜ人間文化学部なの」と言いましたら、「そんなことを言ったら日高学長に怒られるよ」と言われたことがあるのですが、先ほどの日高先生の講演を伺って、今日やっと腑に落ちました。人間の文化も動物の文化も、要するにパターンの違いに過ぎないと聞いて、なるほどと感じました。
さて、私がお話することは、日高先生のお話に則して言いますと高等と思われていた人間のお話なのですが、その高等であるらしい人間の作った文化ばかりが、なぜいろいろな問題を引き起こすのでしょうか。動物の引き起こす弊害についてはよくわかりませんし、何かあったとしても彼らにその責任を求めないかもしれませんが、ともあれ、人間のそれに比べればそれほど大きな問題ではないように感じます。
人間の歴史は文化というものの進歩、発展、あるいは展開とともにあります。が、この文化というものには必ずよい面だけではなく悪い面もあると私は思います。必ず表と裏があり、その表裏を一体としてとらえることが、歴史学にとっては重要であろうと考えています。
たとえば、私がテーマとして研究しているものの一つに「被差別民史」があります。これも、今申し上げた人間の文化の表・裏という問題に深く関わっていますので、例としてお話させていただこうと思います。
そもそも「差別」というものは文化の発展と同時に出てきたものであり、原始時代はありませんでした。文化の発展のある段階で出現して、それをわれわれは今も引きずっているのです。差別の問題はわれわれのなかにある「穢れ」「汚穢」というものを厭う心性と関係しております。そして、汚れ、穢れということの一方の対極には、「清浄」というものがあります。つまり、清浄化できる人たちがどんどん清浄化を行なうから、汚れがはじき出されて、汚穢が発生する。そして、その汚穢を社会的に弱い人びとに押しつけるところから、被差別民ができてきたのです。
ちなみに、京都の平安京というのはたいへん汚くて、穢れていたといいます。パリも建物の上層階からおしっこが降ってきたりしましたが、京都の平安京も同様にひどかったそうです。たとえば、「芥川」という川などは天皇がおられる御所の塵芥を吐き出す川で、『伊勢物語』の在原業平は后候補の姫君を背負ってそこを渡って逃げました。そういった文学的なことはよく研究されているのですが、環境問題が町人たちの生活とどう関わっていたかといった総合的で有機的な連関性を持った研究は乏しい。少々手前みそですが、私はずっとそうしたことをやってきたつもりです。
話がそれましたが、奈良末、平安初期ごろにインド、中国から朝鮮半島を伝って入ってきた「触穢思想」というものがあります。古来日本にはなかったものですが、これによって、お葬式や死の穢れに連なることを皆が忌避するようになりました。そして、死人の処理などを弱者に請け負わせるようになっていきました。
それから、皆さんもご存知の大相撲の女人禁制ですが、このもとになっているのは、「血穢」というものです。女性は生理で出血し、お産で出血します。血液というのは黴菌を媒介しやすく不潔である。ということで、血を出す女性の身体に全部の責任を負わせてしまったのです。
こうしたことは、ある文化の発展段階に出てきた未だ未熟な段階の衛星思想と関わっていると思われます。そうした考え方を、社会的に強い立場にある人たち、たとえば天皇、貴族階層といった人たちがみずからの清浄化のためにうまく利用しました。「汚穢」の処理を弱者に押し付けて、それらの人びとを差別するという構造です。それがやがて都の庶民に広がり、庶民から地方に広がっていって、差別観というものが広く形成されていったのだと思います。
また、病い、疫病といったものに関しても、差別的な考え方が見られます。私はずっと京都の八坂神社の「祇園祭」のことを研究しておりまして、これは「京都の歴史と商業」という演習で史料をくじ引きした際に「八坂神社文書・記録」というのが私に当たったのがご縁なのですが、中世の都市のことがかなりわかる貴重な史料なので、ずっと調査を続けています。
祇園祭というのは「疫病」と深く関係しており、牛頭天王という疫病神をお祀りしたものです。インドでは牛の信仰が盛んですが、それが形を変えて日本に入ってきて牛頭天王になりました。その昔、疫病というのは怨念を含んで死んだ人たちが災いをなして蔓延させると考えらていたのですが、牛頭天王を敬い、信仰すれば助けてもらえる、病いの恐怖から逃げられるというわけです。しかし、疫病神というのは、「厄病神」です。ですから神輿を作って、この神様を歓待しながらも、集落の境目のところへ持っていって他所に追いやる。神輿に穢れをなすりつけて追い払うわけです。これを鎮送といっています。ですから、八坂神社は鴨川の東、すなわち都の中心街の川向こうにあるのです。
牛頭天王は疫病神として怨みのある人間、さらに広く悪い人間に疫病をうつすと考えられ、さらに百八十度転回して、善い人間、この神を信仰する人びとを、疫病から守る神になっていきます。この神様を信仰するよい人間は、病から守ってもらえます。しかし、裏返すと、病気にかかった人は悪い人間かという理屈になってしまいます。それが時代的な限界なのです。病人はたまりません。重病にかかってしまった人、ハンセン病の問題などもそうですが、そうした人びとは神の罰を受けたとして、差別が始まるのです。
祇園社は全国にたくさんあり、町や集村の発達によって感染症が流行しますから、各地に同様なお祭りができます。「コレラ踊り」「ほうそう踊り」といったものもあります。いずれもにぎやかにお祭りをして、ほこほこと神様が喜んだ隙にぱっとよそへ追いやるといった形です。明治時代に堺でコレラ踊りをやったという記録があります。鹿児島の入来院というところでは、今も中年女性が紋付を着てほうそう踊りをやる祭が残っています。疫病に対する恐怖というのは、ある種共同体の結節点になっていて、中世のどの共同体にもみなあります。そうしたものをもとにして、自治都市や町共同体という組織ができています。京都ではそれを町組といっています。
と、いろいろお話してきましたが、では、このように人間の生活文化と表裏の関係にある差別の問題を深く研究解明していくためにはどのような方法があるでしょうか。
このシンポジウムの発表のテーマの一つとして、人間文化研究機構にどのようなことを期待するかを述べてほしいと先ほど伺いましたが、私の抱いているようなテーマにとっては、ぜひとも学際融合的なかたちが必要です。たとえば、いわゆる中世史だけでなく、医学、感染症研究の方々とも連携しなくてはなりません。文献的な医学史などの研究者とも連携したいと思います。また、疫病がはやったときの社会的心理のあり方などについては社会学の分野でパニックの集団心性などを研究されている方たちと協力したい。コレラ踊りといったことについては、民俗学的な調査をなされている研究者の力をお借りしたいと考えています。
ただ、これは私がやりたいと思っていることで、けっして人間文化研究機構にやってくれと言っているわけではございませんので(笑)、学際研究のたとえばの話であると申し添えておきます。
今日は被差別民史のお話を主にいたしましたが、その他にも、私は商業史、都市史、そして女性史にもたずさわっており、生活文化を総体的にとらえたいと考えています。これは衣・食・住や自然的な問題といったじつにいろいろな問題に関わっていますので、幅の狭い、いわゆる歴史に対するアプローチでは無理なのです。
たとえば女性史、ジェンダー論などでも、女性と男性ではそもそも身体の構造が違うので、今では医学の方々が洋の東西を問わず関われることがかなり多くなってきました。私どもも最初のうちはどこか話があわなかったのですが、いろいろ融合して面白い展開になりつつあります。最近、医学に触発される面が多いのですが、そのような点も女性史研究の発展に貢献すると思っています。
これまでの日本の学問、とりわけ人文科学の学問は、近代科学がそのような面を持っていますが、それに加えて、日本人の特性でもあるのでしょうが、一つのことを深く掘り下げていくかたちです。そのことが基礎研究になるという意味ではすばらしく、貴重なのですが、とにかく深く深く掘り下げることによって孤立分散していく傾向があり、なかなか学際融合にはなりにくい。
しかし、私は学際的共同研究の必要性を痛感しております。それはどういうことかと申しますと、たとえば、人文・社会科学系の女性学・女性史の分野では、最近、ジェンダー論が盛んです。ジェンダーというのは、「自然的・身体的性差」であるセックスに対して、「社会的・文化的に形成されてくる性差」をいうのです。たしかに、男性を優越したものと見て、女性を劣等なものと見るもろもろの事象は、社会的・文化的に形成されてくるものです。自然的・身体的な男女の性差すなわちセックスも、その価値判断が社会的・文化的に付与されてくるといえます。
ところが日高先生は「生物学抜きの女性学はけしからん」とあるところでおっしゃっています。たしかに、いわばジェンダー論は、自然的・生理的な性差を捨象したところで成立している面があります。しかし、そのことは必然的に、自然的性差すなわちセックスとジェンダーが、どう係るかという問題を引き起こしました。逆に現在では、生物学的性差が社会的文化的性差にどう係るかが焦点になりつつあります。
ジェンダー論は社会的・文化的に女性が劣勢な性とされたことを言いますが、劣勢な性となったのはなぜかということは言っておりません。それは女性が国家や社会の権力形成期に弱者とされたからであって、それは女性の持つ母性機能のために生理が、権力形成に不利に働いたからだと私は歴史段階的に考えています。そしてひとたび弱者となった女性の性は、かつて月日の運行と同じように自然現象と考えられてい生理や、出産の出血によってジェンダー的に「血穢」「汚穢」と認定されるにいたるのです。
男女平等達成に根ざした女性学・女性史の分野の研究は、そして大げさに言えば、究極的には人類や動物の生存のための研究として、性差の問題は医学・生物学との提携が望まれますし、前述したような女人禁制などの性別の強化の研究は、感染症・免疫などの研究との関係が不可欠です。感染症の流行によるパニック現象の分析には社会学、その歴史的考察には考古学・文献史学、人びとの意識の考察には文学・美術、疫病神駆除の祭礼や、被差別民・女性などの堕地獄の救済としての芸能、習俗などの研究には民俗学・文化人類学の研究が不可欠です。それらの研究者の基礎研究を踏まえた学際的交流によって、基礎研究も新たな問題意識を生むのではないかと思われます。この例のように、あらゆる分野で学際的研究の必要性は考えられつつあるのではないかと思っています。
そのように思われますので、この機構の発足がよい契機となればと感じます。
以上です。自分の専門である中世史の立場から話させていただきました。
- 長野
- ありがとうございました。
- 長野
- では、次に古橋信孝先生、お願いいたします。古橋先生は上代文学、平安朝の文学などから始めまして、それに関する古代人の生活や文化全般、さらには時空間の認識に関する研究など、非常に幅広い活躍をなさっておられます。
- 古橋
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生物の進化には、一つ筋が通った見方として、単細胞動物から始まって人類に至っているという図式があります。いわゆる「進化論」ですが、私がかねてから抱いていた疑問は、なぜこのような考え方が必要なのかということでした。そして、思い至った結論は、結局、当時の人間たちがそした考え方を求めていたのではないかということです。
では、そうだとすれば、進化論の前はどのような考え方だったのでしょうか。
進化論以前に、人間はどのようにして「人」であったのか。その答えの一つとして、おそらく宗教があります。世界的レベルで考えればわかりやすいのですが、たとえばキリスト教では、キリスト教に属している人間を人とみなします。そうすると、異教徒は殺してもよいといった発想が出てきて、ネイティブ・アメリカンが殺されていくといった事態になります。ですから、宗教というものには「人とは何か」、あるいは「人と人のつながり方とはどういうものか」といったことを規定する側面があると思います。
私は今非常にものごとを単純化して大まかに述べているのですけれども、たとえばアイヌの人たちにとって、「アイヌ」とは「人」という意味だと聞いたことがあります。すなわち、「人」という概念は、自分たちの種族、部族、つまり同じ共同体に属する者たちを意味することになります。そうすると、それ以外の者は人ではないというような理屈にもなります。
かつての社会では、どこでもたいてい同じ共同体とか、同じ種族ということで先祖の時代から血筋がつながっていますから、血筋というものを基本にした人間関係を作って、そこにいる人びとを「人」と考えて、他と区別しました。というのも、今の世の中と違い、昔はそれほど相互に交流をする必要がなかったからでしょう。しかし、時代が下ると、それぞれの地域社会が他の社会と交流する必要が出てきます。そのときに血筋を超える結びつき方が必要になります。そして、宗教という先ほどの話になるのです。
しかし、やがて宗教でもこと足りなくなる。たとえばキリスト教のヨーロッパ世界がアジア世界に進出して、多神教や仏教などいろいろなものに出会います。最初のうちは殺していくのですが、次第にそういうわけにもいかなくなり、相手も同じ「人」とみなさなければいけなくなります。そのときに、ヨーロッパ人もインド人も日本人もみな同じとみなせる根拠はどこになるのかということになったと思うのです。そうしたなかで「進化論」が登場してきたのではないかという気が私はするのです。
同時に、人間というのは人間としての誇りを持たなくてはすまない生きものですから、人間が高等動物だという帰結が当然出てくるわけです。人間は他の生物よりいかに優っているか。その優位さによって、他の生きものを殺せるわけです。ですから、このように見ますと、進化論とは世界を人間の見方のなかに抑え込むものといえます。そして、それが文化なのです。ある時代に、その時代の人間たちが共通に持っている問題意識があるかたちで示される。文化として出てくるのです。ですから、進化論も一つの文化とみなすことができます。
しかし、先ほど日高先生のお話にもありましたけれども、人間も肛門のない生物も同じ生きものとして生きていく、いわゆる未開人も文明人も一緒に生きていく、ともに文化なのだ、といった見方がその後しだいに普遍化してきました。つまり、進化論というものに日高先生のように疑問を持つ方が出てきたわけです。僕もそうなのですが、ともあれ、そのような疑問が呈される段階になって、進化論というのはどうも危ない考え方だということになりました。
しかし、そうすると、人は人であることにどのようにして誇りを持つかが切実な問題になると思います。それに対して僕は回答を何も持っておりませんが、とにかくそういうことだと思います。
このシンポジウムのタイトルは「今なぜ、人間文化か」ですが、今まで述べてきたように、人間の考えることはどんどん変わっていきます。たとえば進化論の時代の人たちは、進化論は絶対に正しいと思っていました。そのように、今絶対的に正しいと思っている、いかにも客観的と思われることでも変わる可能性があります。それが歴史です。歴史はそうやって変わっていくのです。ですから、歴史を見る問題というのは、じつを言うと、そのように現在の自分を絶対化しない発想ということになります。なぜなら、いずれ変わってしまうかもしれないからです。
私がこのようなことを考えるようになったきっかけは、個人史的な問題で言えば、人類学的な見方が決定的に大きかったと思います。つまり、高い文化が低い文化に流れるわけではない。水が高いところから低いところに流れるように、人間の文化も高いところから低いところに流れるという考え方はとても危険である。そうではないことは、人類学的にいろいろ例を出せるのです。ですから、人間の文化というものは、いわゆる客観的な真理といったものと並べて比喩化することはできないというようなことになるわけです。
では自分の専門分野の古典文学の問題と重ねながら、少しお話させていただきます。
日本では平仮名というものが九世紀に登場してきて、十世紀にいちどきに普及します。『古今和歌集』が九○五年、『土佐日記』が九三○~九四○年、『源氏物語』が一〇○○年過ぎです。『土佐日記』というのは日本最初の仮名文学であり、わずか百年のうちに『源氏物語』ができました。
『源氏物語』がいかに高度な文学かという点は説明がたいへんなのでやめますが、最大の指標は、現在でも大半の人びとが読んで「面白い」ということでしょう。なぜ面白いかというと、今の多くの人が心に抱えている問題と、『源氏物語』に描かれている世界がつながっているからだと思います。つまり普遍化ということです。現代社会に通じるような心理的な構造、心の描き方がなされているのです。
ただ、それにしてもたった百年の間にものすごい勢いで高度な作品が登場してしまうなどは、ふつうは考えられません。これはどういうことなのでしょうか。
通常、仮名文学について説明されていることは、要するに、日本にはそれまで文字がなかった、そこで平仮名を作り、自分たちの文字を持った。これによって日本人は文学を表現できるようになったといったようなものです。だから、『源氏物語』が生まれたのだと説明されます。私もそのように教わりました。私も学生時代はそうかなと思っていたのですが、そんなに単純なことではなかろうと思います。
そこで、平仮名というものについて考えてみたいと思います。たとえば『土佐日記』の書き出しは、「をとこもするなる日記というふものを、をむなもしてみむとてするなり」です。このうち漢字で書いてある部分は「日記」だけで、その他はすべて平仮名で書いてあります。その後、日記が実際に始まるのですが、その書き出しは「しはすのはつかあまりひとひ」と、やはり平仮名で書いてあります。漢字で「十二月二十一日」と書いて「しはすのはつかあまりひとひ」と読ませれば簡単に済むものを、その倍くらいの文字を費やしてわざわざ平仮名で書いているのです。しかも続き文字で書いてあり、とても読みにくい。
ここでわかることは、平仮名は実用的ではないということです。実用的に済ますならば「十二月二十一日」でよいのです。ですから、平仮名というのは実用性を超える問題としてあることに気がつきます。漢字を排除していることから、漢字に対応するものとして平仮名があることにも気づきます。
『土佐日記』という文学は、女の立場から書かれています。当時の日記といえば男が漢文で書くものであり、宮廷の仕事など主に公的なことを中心に書きました。これは「をとこもするなる日記といふものを、をむなもしてみむ」に現れていて、男は漢文、女は仮名という対応関係があることもわかります。『土佐日記』は土佐守の奥さんが書いた日記というかたちですから、公のことは一つも書いていません。公的なことではなく、女の私的な立場からものの見方を書いた。私的な見方とは、要するに心に浮かんだこと、感想や批評のようなことを書いたのです。
そうすると、ここで二重構造が見えます。つまり、平仮名の役割というのは、人の心の私的な側面を書いていくことにある。言い換えれば、私的な立場からものを書くことが、平仮名によって認められたということです。
今、認められたという言い方をしたのは、じつはそれ以前に「和歌」があるからです。和歌もほとんど平仮名で書きましたので仮名文学の一種であり、天皇の勅撰集があることからもわかるように、天皇の公認のもとで、私的な世界を書くのに平仮名を使うかたちがとられました。私的な心の問題について、誰でも平仮名を使えば書けるようになったということはたいへん大きなことなわけです。
今述べたようなことは、先ほどの「文字を持つことで……」という説明とはまったく違います。そのような単純な見方のなかでは、今言ったような議論はできないのです。
そこから派生していろいろ考えてみますと、たとえば当時の「摂関政治」などに思い至ります。摂関政治とは、平たく言うと自分の娘を後宮に出して、その娘に皇子を生ませ、自分は帝のおじいさんになる。私的な関係が政治を覆うわけです。摂関政治というのはとても特殊な政治で、私的なものを基本に置いているのですが、これと仮名文学がまさに一致するように感じるのです。
これらは古典文学を読むところからわかってきたことなのですが、ともあれ、「平仮名」という存在から古代というものの様相が、従来言われていたこととは少々違かったかたちで見えてきます。
平仮名の問題も含めて、従来の見方に対する私の疑問は、『万葉集』から始まりました。私は文学史が書きたくてこの道に入ったので、日本の文学の歴史が知りたかったのです。それで『万葉集』を読みはじめてみたら、わからないことだらけなのです。皆さん「わかる」と言って感動しているのですが、それは通常、わかる歌のことしか書かれていないからです。選ばれた歌についてだけ評価されており、わからない歌については放ってあるのです。ですから、私は逆にわからない歌から読んでみようと思った。そうすると、まったく違った世界がみえてきました。
これまでわれわれは、千年以上昔の歌に現在の自分たちの考え方や感じ方を押し付けてきたのです。それを一度やめてみると、歌の背後にあるのはまったく違う世界で、わからない表現だらけなのですが、じつはそれが当時の社会的な必然だったとか、あるいはこれが文体の歴史なのだといったようなことがいろいろ見えてくるのです。
こうして自分なりに取り組みを始めて、わからないことを知るために民俗学を勉強したり、美術史や人類学、生物学も勉強しました。一般的に読めるものしか読みませんけれども、いろいろな本を読みながら、主に社会や文化といったものを自分の頭のなかで消化していって、先ほどから述べているようなことに到達したわけです。
しかし、他の分野の勉強もしながら、私は文学研究者としての自分の立場を手放したことは一度もありません。学際的な研究で難しいのは、自分の立場をどこまで明確にしていくかということのような気がします。そして、そこからはずれてはいけないとも思います。最近、文化科学というのがはやっていて、私の大学でも学生たちが総花的に並んでいる授業をいろいろ取るのですが、そうすると卒業論文が書きにくくなってしまうという現状があります。
一つの立場のなかでいろいろなものを受け入れていくのはいい。ただ、受け入れていくときに、自分の持っている「学」との距離を常に意識しながら、いろいろ他のものも取り入れて接点を探していくことで、新しい「学」が生まれる、あるいは新しい文化が生まれてくる。そのような気がします。
文学研究とは何かと問われれば、もっとも基本的には文体の問題であり、文体の研究だと私は考えます。そして、この点を間違ったら、心理学やなにかと大差なくなってしまうのです。文学研究の固有性というのは、文学の美としての言葉の表現の問題、それから、それを個人の心という位置からいかに表現するかという問題、その二つを徹底的にやっていくことだと思います。
先ほどから申しているように、文化というのは変化していくものです。そして一方で、文学というのは個人の心にこだわりますので、個人の考えている問題、言ってみれば、自分の「好き」だけでやっていることともいえます。人はそれを読まされるわけですが、しかし、不思議なことに不快感はあまりない。文学とは、「おまえが好きでやっていることだろう、おれには関係ないよ。」と言わせなくするにはどうするかということでもあります。それが、先に『源氏物語』で言ったような「普遍化」という作業だと私は考えます。
とにかく自分の好み、興味、関心といったところから始まるのですが、それを普遍化する作業をおろそかにしてはいけない。それによって人と共有できるのです。そのときの共有の仕方の問題に、じつは文化がまた関係してきます。
というようにして、循環してしまうのですが、変化という問題と、変化を許容するという問題。それは、人はそれぞれ違うのだということを許容することですし、そうすると、では人間とは何かとか、自分であることの誇りは何かとか、そういう問題に行き着きます。今のところ私が念願しているのは、そうしたことを徹底的に考えてみようということです。
最後にもう一つだけ言わせていただきます。私はたばこを吸うのですけれどもだから言いにくいのですが、最近の禁煙問題というのは、まさに個人を大切にしない発想だと思います。なぜなら、たばこが悪いとなると、どこでも、何が何でも悪いということになって、どんどん喫煙所が減っていきます。昨日、荻窪を歩いていたら、「路上禁煙地域」とどこに行っても書いてありました。そのように、なにか正義だと思われていることは疑ってみたいと思うのです。個人という立場から考え直してみよう。そういうことに徹していくことで、逆に人とつながることができると思うのです。そもそも正義というのは本音ではないのですから、それだけでは他人とつながれない。そのような気がしています。そして、そうしたことを研究するのも文化なのだと思っています。
- 長野
- ありがとうございました。