パネリスト
猪木武徳*/小林傳司*/野村雅一*/嘉田由紀子*
司 会
鷲田清一*
 
人文学の判断力と表現力
  • 猪木
  •  いま、鷲田さんが最後におっしゃった点ですが、私は、人文学は問題の重い軽いとか、どちらが大事だということを判断するような感覚を養うといったところに関係しているのではないかと思います。私は物事を経済学的な視点から見ることに非常に慣れっこになってしまっているのですが、こんな例があります。

     たとえば大地震が起こって、たくさんの方が命を落とされます。にもかかわらず、なぜ震度8にも耐えられるような建造物を造らないのか。それは要するにコストの問題です。本当にそういうものばかりで国を埋め尽くそうとしたら、コストがかかってとてもやっていけない。もう少しシンプルな例で言いますと、スーパーマーケットが万引きで非常に悩んでいる。万引きされますと、スーパーマーケットでは大きなロスになります。では一〇〇%万引きをなくすにはどうするか。それは、たくさんの警備員を雇って買い物をする人のそばにつけばいいわけです。しかし、現実にはそういうことはしません。監視カメラを置くくらいの措置しかしない。なぜかというと、市民としての自由の問題もありますが、そのほうがコストがかかるからです。つまり、ある程度の万引きは放置するぐらいでないと、スーパーマーケットの経営は成り立たない。物を取られれば損失を被る。しかし、それをゼロにするためのコストはもっと莫大なものになるということです。

     これが、経済的な解答です。経済学は「だから監視カメラ程度しか置かないのだ」というような解決しか与えません。そして、もっと言えば「そもそも盗みが悪いのだ」「地震で多くの人命が失われることは避けるべきである」といった判断を、経済学はできないわけです。人の命の重さや盗みの悪といったものに対する感性を培うことは、社会科学の中の一つである経済学にはできないのです。

     そうしますと、何がわれわれ人間にとって重要で、何が重い、軽い、大きい、小さいのか。そういった問題を判断できる力を与える何か、あるいは価値そのものを議論するようなことを人文学に期待したいと私は思っています。ちょっと歩く人文学というテーマからはずれた発言になりましたが。

  • 嘉田
  •  まさに「判断力を養う」というところで、私ども京都精華大学の環境社会学科は、人文学部にある少数の環境系の学科だろうと思います。そこで学生がたとえば四年間環境社会学を学んで、私はこれをやりましたという自信をつけてもらう方法は二つあります。

     一つは、まさに言葉の表現力を養う。それこそ鷲田さんなり、猪木さんなり、あるいは野村さんの本を読ませていただいて私が見事だなと思うのは、表現力です。私は「住民力の養成」と言っていたのですが、鷲田さんは「市民としての体力が低下している」とおっしゃっていました。私はこの表現はとてもいいと思いました。物事をうまくぴたっと表す表現力、言語体系を、若い人たちはなかなか持っていないわけです。その部分がたいへん大事だろうと思います。

     同じように、行政の言葉は非常に「かみしも」を着ています。一つの例ですが、雨が降ることを「時間五十ミリ」というように表現します。時間五十ミリと聞いても、普通はほとんど理解できないでしょう。これは「バケツをひっくり返したような」雨です。時間百ミリになりますと、「ロープがつながったような」雨です。そう言い直せば理解できます。このようなことで、まさに私は「頭言葉を体言葉に直す」と言っているのですが、体の表現にしていくことも、いわば言語の問題としてたいへん大事だろうと。それが一点です。

     二点目も学生に言うことなのですが、重要なのは多様な生き方なり考え方について学ぶ、「多様な価値観を学ぶ」ことだと。たとえば私が赤痢になったとしたら、私の身体には赤痢菌があるのです。コレラになったら、コレラ菌があるのです。というように科学的には説明できますが、私がなぜ赤痢になったのか、コレラになったのかは説明できません。しかし、こういうものをピシッと説明してくれる民族もあるのよと。

     これは災因論ということで人類学の得意なところなのですが、あるアフリカの村では病気になったのは誰々がウィッチ(のろい)をかけたからだと説明します。私が調査しているアフリカの村ではいまでもそうです。人が病原菌で死ぬとはあまり思っておらず、マラリアも他の伝染病も誰かがウィッチをかけたせいなのです。そして、これはある意味たいへんわかりやすいのです。じつはこれと類似した精神作用は、この私たちの中にもないことはなくて、だから新興宗教に走ったりするわけです。新興宗教の話とアフリカのウィッチの話は必ずしも無縁ではない。「自己納得を得る」ための、いわば多様な価値観。このあたりが、人文学としては大事な方向ではないだろうかというのが、日々学生と接触していての感想です。

  • 鷲田
  •  いま二つおっしゃったことの前半ですが、確かな表現、不確かな表現というのは確かにありまして、これまでの科学はその確かさのイメージがすごく硬直していたように思います。客観的であること、あらゆる事柄に当てはまること、だれが読んでも理解できることという、客観性や普遍性を基準にしていた。それ自体は間違いではないと思うのですが、その内実が、数量化であるとか記号化であるという、非常に狭いものになっていたと思います。

     理系と文系、あるいは自然科学と文化科学の差異は何かというとき、二十世紀の最初にドイツなどでは、法則定立的というのでしょうか、誰でもいつでもどこでも当てはまるような命題でできている体系が自然科学であると言いました。それに対して、文系の定義は、一回限りの個性をきちっと表現できるような個性記述的なものを指すと言っていたように思います。私はこれには少々抵抗があるのですが、ただ、いま嘉田さんがおっしゃった「確かな表現」というときの確かさというのは、むしろ自然科学的な確実性よりも人が納得できるようなという意味の、もう一つの確実性だと思います。

     野村さんは、先ほどご自身でも適切な抽象度のこと、ご自分は抽象度を下げているのだとおっしゃいましたが、そういう「確かな表現」ということについてはご意見があるのではないでしょうか。

 
 
「ネット心中」と不可解なネットワーク
  • 野村
  •  まず、いまの専門知と一般の知の問題ですが、どちらが上、どちらが下、ということはないと思うのです。とりあえず専門知というのは、深いけれども狭いということなのではないですか。ですから、専門家は素人から質問されたら困る。子供などに質問されたら、ルールを知らないのですから、大抵のサイエンティストは答えられませんね。一定のルールの中で、専門知というものはあるわけですから、素人というのはゼネラルですね。すべて丸ごとで生きている。ですから、その中で役に立たなければいけないとなると、専門知の表現を社会の中でテストしてもらうことだと思います。専門知は、ゼネラルな社会でテストを受ける。しかし、それがまったくわからないような素人では、やはり困るのではないかと思います。抽象度ということもあるし、どのレベルに力を入れたらいいのかという点に、問題があると思います。

     しかしながら、先ほどから私がもう一つ問題があると思うのは、嘉田さんのお話で、ローカルなレベルでコンセンサスをどのように作っていくかという点の問題です。自然災害に限らず、いろいろな問題をローカルなレベルで考えていく、解決法を考えるということは、これまでもいろいろな試みがされてきました。ただし、この十五年くらいの間では、抱えているのはもはやローカルな問題だけではまったくない。

     たとえば環境問題でも、地球環境にいきなり飛躍して、異常気象とかいう問題になってきますね。これは琵琶湖の水が循環してというレベルでは、まったく対応ができないことだと思います。人類学などでは、顔の見える関係と顔の見えない関係という考え方がありますが、ここに来て明らかなのは、顔の見える関係の役割が恐ろしく小さくなってきて、顔の見えない関係が、私たちの生活の中ですごく大きな役割を持つようになってきていることです。その中で、コンセンサスや表現を、要するにコミュニケーションをいったいどうしたらいいのかという根本的な問題があると思います。人文科学の中では、要するに普遍と個というか、地球人類といったレベルで考えなければいけない問題もあるのですが、一方で納得というのは、個人が納得しなければいけないので、個ですね。その人類と個の間を媒介するものをどのように考えていくか。その手段を、媒介する言語を、考えるのはものすごく重要だと思います。

     私は、個人的には、はっきり申し上げて、「歩く人文学」はもう役割が終わっているのではないかなという感じも持っています。というのは、フィールドワークとは、基本的にどこかに行って調べることです。何学でもいいのですが、現地に行く。そこで当然見たり話を聞いたりするのですが、いまはそのやり取りの中に、その話題をはるかに超えたような、地球レベルの問題がいきなり交差してくるわけです。これをどのように媒介するのか。

     コミュニケーションということでは、いまの日本は相当ヤバイ状況になっているのではないかと思うんです。たとえば「ネット心中」というのがありますね。あれは日本独特のものではないかと思いますが、とにかく誰かと一緒に死にたいという人たちですね。知らない者同士が会って、いきなり練炭か何かで車の中で並んで中毒死する。信じられないことですが、あれは顔の見えない関係だから成り立つのだと思います。もし互いに知り合って、事前に合宿でもして一か月ぐらい一緒に住んでから死ぬかどうか決めようとなったら、それは丸ごとの人間ですから、だんだんいろいろ見えてしまって「こんな人と一緒に死ぬのは嫌だ」ということになって、やめるのではないかと思うのです(笑)。ところが、ネットでは顔の見えない関係ですから、すべてが死ぬという一点だけに糾合されてしまうのです。そうするとコミュニケーションがあっさり成り立つのです。そのようにして成立するコンセンサスというのは、決していいものではありません。

     そんなわけで、ローカルな問題とグローバルな問題の媒介、あるいは顔の見える関係と顔の見えない関係をつないでいくことを、人文科学はもう一回考え直さなければいけないのではないか。

     電話で話もできないで、メールだけのコミュニケーションしかできない人がたくさんいるわけです。これではどうしようもない。そういう人たちに訴えるというか、関わり合うのはどうしたらいいのか。それはやはり、人文学の大きな問題ではないかと思います。

  • 鷲田
  •  専門家、非専門家の間の齟齬という問題の根っこにはじつに難しい問題があるようです。自分が見たり聞いたりできるローカルな生活世界のレベルと、そういうものを超えて、よほど想像力を働かせて、あるいは知識を得ないとたどり着けないようなグローバルなレベルとの差。その間はいまは切り離されているというよりも、むしろもつれてわけがわからなくなってしまっている。私たちがローカルだと思っている場所の中に、なぜそうなっているのかわからないようなグローバルな問題のネットワークのようなものが、突き刺さっている、あるいは浸食してきているということの恐ろしさですね。これは大きなご指摘だと思います。

 
 
揺らぐフレーミング
  • 嘉田
  •  まさにローカルなことは、いまやもう終わりだということは、私もいつも批判をいただいています。けれども、その部分については私なりの見解があります。いま、アフリカと琵琶湖をやっておりまして、アフリカの電気もガスも水道もない所のほうが、グローバライゼーションがきついです。二つの意味できついです。

     一つは産業構造の典型としてとりあげますが、経済としての緑の革命です。種も肥料もすべて輸入なのですが、自国の貨幣がどんどん切り下げられますから、国際的な肥料価格に何の防波堤もなく、生活がさらされています。それからもう一つは、生物多様性の問題での国立公園化です。国立公園ができることによって、住民は排除されます。そこにはコミュニティの意思も、国家の意思もありません。完全にグローバルな国際化の流れに押されています。目に見えるローカルな生活世界を安穏と考えているような悠長さはないと私は思っています。ですから、琵琶湖の問題も決して安穏とはとらえられないのですが、ある意味で自主判断力を持っているだけ、アフリカよりはローカルな判断ができます。その辺が違うということです。

     それから、いくらグローバル化しても、最終的には、人間はある手触りのあるところでしか判断できないと私は思います。しかし、そう言いながら、ではネット心中をどうするのかと言われると、これはまた次の局面になってきます。つまり、生活世界、手触り、肌触りのある五感で関係を持てる人たちの関係を超えたところで、死というものが選べるということです。で、これはずれてしまうかもしれませんが、数日前、板橋の十五歳の子供さんが両親を殺しました。それを見て、私はこれは殺人と思っていないのではないのかという気がしました。勝手な言い方ですが、どちらかというと、親と一心同体で、いわば「自他界区分」がもっと広いところにあり、親がしんどいから、一緒に消えてやろうというような感覚ではないかと、ちらっと思っていたのです。このことは関西学院大学の野田正彰さんが、一昨日のコメントで言っておられました。

     そうすると、いままさに日本の子供たち、あるいは若い人たちが持っているものは、具象・抽象にせよ、顔の見える世界にせよ、自他界区分にせよ、どうも私たちは既存のフレームでは理解できないところに入っているのではないのかということを感じています。

  • 鷲田
  • 接触の中で、ふっと死を選んでしまうという問題もそうですし、それと同じくらい深刻な問題は、責任とか倫理といわれてきた問題も、じつは同じものを抱え込んでいるのではないかということでしょう。いまでも生命倫理や環境倫理や情報倫理など、倫理という言葉はよく使われますが、そこで言う倫理とは、かつての倫理です。つまり、顔見知りの閉じられた共同体の中では、たとえば他人への思いやりが大切だとか、ウソをついてはいけないと思っていた。これ以上やるととんでもない仕打ちを受ける、罰が来るのではないかといった感覚があった。しかし、そのように体感的に感じていたかつての倫理で現代社会を論じることには限界があって、倫理あるいは責任という問題を考える場合でも、環境の問題一つ取っても、私たちは体感ではなく、ものすごく知的な類推や想像力を働かせて、責任の問題にたどり着くまでの「間を埋める」作業が必要になっています。そのようにして初めて問題になってくる責任のほうが、いまでは多くなってきていると思います。

     先ほどちらっと言いましたが、普遍が自然科学の問題で、事物や人生を個性的に描くのが人文学だというような二十世紀最初の二分法も、そんなに単純にはいかないことがいまのお話を伺って非常によくわかりました。

     さて、今日はたいへん盛りだくさんで豊かな意見を交わしていただいたのですが、最後に皆さんにお一言ずつ、課題として浮かんできたこと、あるいはご感想でもけっこうですが、お聞かせいただければと思います。

 
 
道草、パブリックな知、新しい公共性の構築
  • 嘉田
  •  最初に鷲田さんがおっしゃっていた、唐木順三さんのスクールバスの話とのからみですが、私自身は自分の人生はある部分、道草だったと思っています。たとえば結婚する、子供が生まれる、家事をしなければいけない、育児をしなければいけない。それを一時期は本当に道草だと思っていたのですが、そこから教えてもらったことが、じつは今日お話させていただいた、「制御しきれない共感の世界」をどう考えるかということにつながってきました。

     ですから、私の学問の指南役は子供たちで、道草というのはある部分大事だったなというようなことを、今日、改めて思いました。スクールバスの話と道草の人文学で、まさに人生というのはそういうところから始まるのかなと思っています。

  • 猪木
  •  これからの人文学はどういう問題を念頭に置いていくべきかということで、少し古いのですが、一つだけ具体的な例を言います。私は福沢諭吉という人物が非常に好きで、昔、学生とよく彼の著作を読んだのですが、彼は『文明論之概略』の中でこういう分類をしているのです。

     文明にとっては、知恵(インテレクト)と徳義(モラル)が決定的に重要だ。しかし、その各々に、私的(プライベート)なものと、公的(パブリック)なものがあると。それで2×2で4のコンビネーションができるわけですが、その中で、たとえば私的な知恵というのは、物理学の問題が解けるとか、ある技術に関して理解ができるといった個人が学校の勉強で獲得できるような知恵です。それから、私的な道徳というと、金銭にきれいでありたいとか、貞節に関してプリンシプルを持ちたいというようなものだと思います。

     ところが、福沢は公的なほうの知恵と徳義を非常に強調するわけです。まずパブリックな知恵のいちばん大きな問題は、先ほど言いましたように問題の重要性を認識し、それに順序をつけることができる能力だというのです。細かいことを云々するよりも、大局的に自分は何を大事だと思うかということを述べられるようにしなければいけないというのです。

     そして、もう一つがパブリックなモラルです。日本ではよく政治家が金をどうした、女性問題がどうだといったことを取りざたしますが、そういうことではなくて、彼がフェアであるか、勇気を持って発言できるか、全体にとってこれがいいということをはっきり説明できるかというようなことがモラルだというのです。

     ですから、その意味で言いますと、テクノロジーやサイエンスがやってきたことは、プライベート・インテレクトのほうが基本なのでしょう。そして、これからの人文学は、パブリックなインテレクトとモラルに関して何か発言できるようにしなければならないのかなと思います。これが、これから人文学に期待される一つではないかと思います。

  • 野村
  •  いま、猪木さんがパブリックとおっしゃったことですが、かつての日本社会の各地域で、ローカルなレベルであった共同性、共同経験のようなものは、すでに完全に崩壊してしまったと言っていいと思います。同時に、それをもう一回ちゃんと作り直して、よりどころにしてやっていくというのも、かなりしんどい、難しいことではないかと思います。しかし、では共同性の反対でいけばよいのかといえば、いきなり個人になってしまうのです。自分に引きこもって生活する。そんな人はいま実際にたくさんいますが、皆、個になってしまったら、どうしようもないことになってくるのです。そうすると、やはりそこのところで、猪木さんのおっしゃっているパブリック、公共というものを考えていかなければいけないのだと思います。

     ただし、この公共というのは、従来のようなパブリックではもちろんだめでしょう。従来のものといったら、それこそ単に産官学連携ということになってしまいます。産官学といいながら、本当は官がいちばん上で、「官民挙げて」といいますが、なぜかいつも日本では明らかに官のほうが上のほうに立っています。しかし、いまはもうそういう公共性では誰も納得しないだろう。では、どういう公共性を作っていって、それを媒介項にして、これから次の世代にどう社会をつないでいったらいいのか。それを考えるのが人文学の大きな役割ではないかと思うのです。

 
 
専門家という野蛮人
  • 鷲田
  •  どうもありがとうございました。どなたからも、とても重要な論点が出てきて、とてもまとめきれないのですが、最後に私も感想を述べさせていただきたいと思います。

     私が専門、非専門の間のコミュニケーションを考えたとき、いつも思うのは、じつは「専門家」という人がいるわけではない。専門家というのはある何かの分野の専門家なのであって、裏返せばその専門外の一歩外では完全な非専門家ということなのです。よくそこを間違うのです。日本では、ものすごく狭い部門でノーベル賞を取られた方が、急にテレビに出て教育を論じたり、経済のことを論じたりされて、皆もありがたく聞いてしまうのですが、奇妙なことだと思います。専門家という名前の人間がいるのではないということを、まず考えないといけないと思います。

     一九三〇年ごろでしたか、私が好きな思想家でオルテガ・イ・ガセットが、今日の専門性の問題を見越してすごいことを言っていました。それは、われわれの文明世界に十九世紀の終わりに突然すごい野蛮人が現れたというのです。その野蛮人とは皆さん、誰のことだと思われますか。自然科学の専門家のことなのです。今日の社会でいちばん大衆的な人、つまり括弧つきで賢くない人は、自然科学の研究者だというのです。なぜかといいますと、自分が専門としているものすごく狭いところのことだけよく知っていて、人間が分別を持つために必要なことは知らない。そして、専門的に知っていること以外には関心を持たず、その部分に関心を持ってしゃべり出す人のことを「研究者らしくない、いい加減なことを言うな」と批判する。ですから、「知らないことについては語らない」ことを美徳と考える種族が現れた。それが人としていちばん分別のないことだというわけです。

     もちろん専門外のことにいい加減な発言をする学者は、実際にいい加減な学者なのですが、今日、われわれ人文学に関わる者は、そうした専門性に関わる問題をつきつけられていると思います。つまり、猪木さんが価値の軽重、順位をつけられること、あるいは小林さんが価値についての語りというものをするのが人文学だといったとき、その価値の問題とか、本当にわれわれが直面しているさまざまな問題は、人の生活のあらゆる面について何らかの確かな考えを持たねばならない。そういう判断力を持たねばならない。それが、人が賢くあるということで、人文学はその全領域に関わるはずなのです。しかし、他方で、人文学と名乗るプロフェッショナルである限りは、自分はいったいどこまで確かなことが言えるのかということについて強烈な自己反省も必要になってくる。しかし、その道を歩まねばならぬということで、人文学者は自分に試練を課してきたのだろうと思います。

     もう一つは、やはり今日ずっと問題になってきたコミュニケーションの問題です。野村さん、そして嘉田さんがこれについて最後に語られていたことは、私なりに解釈すると、こういうことなのではないかと思います。つまり、私たちの社会というのは、ある時期まで、互いによく見知り合っている人との間のコミュニケーションを、いかに精密で、濃度の高いものにするかという訓練を積んで、それにはかなり長けてきました。最終的にはしゃべらなくてもわかるという理想的なレベルにまでたどり着いた。

     ところが、そんな中で、野村さんがおっしゃったようなローカルなものの崩壊、あるいはそこへグローバルなものが垂直に突き刺さっているような状況がある。そのような状況の中で、私たちに必要なコミュニケーションは、むしろ互いにまったくコンテキストを共有していない者同士がたまたま一緒に生活をしているような中で、どのようにして場所を運営していくのかというコミュニケーションの作法のようなものを身につけることではないでしょうか。今日、コミュニケーションの回路ということで、パネルディスカッションが始まりましたが、そういう回路を見つけること、作法を身につけることこそが、重要なのではないだろうかと思いました。それが猪木さんのおっしゃったパブリックな思考、これは一人でやるのではなくて、まさに対話ということでやっていくことだろうと思います。

     

 それともう一つは、私たちはコミュニケーションといって、すぐ問題解決のためにコンセンサス(合意)を考えます。それは非常に大切なことですが、合意というのは、コミュニケーションの最低限の一つの実現形態ではないでしょうか。つまり、合意した最終的な内容自身はたいしたことではない。それより、本当に対話したな、コミュニケーションしたなと実感をひしひしと持つのは、むしろ逆に合意できなかったこと、差異のほうなのです。どうしてもわかりあえない互いの差異が、話せば話すほど微細に感じられてくる。わかってくる。これこそが、むしろ対話が深まるということを意味するのではないだろうかと思います。

 互いに見知らぬ者、理解できない者が、それでも一緒にこの場を運営していく。そのためのコミュニケーションの作法を身につけることが、いまパブリックネスという点で問題になっていることではないかと思いました。

 強引なまとめになってしまいました。今日は非常に重要な論点を積み残してしまいましたが、それも皆さんそれぞれお持ち帰りいただければ、うれしく思います。長時間のご講演とパネルディスカッション、どうもありがとうございました。

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