シンポジウムを終えて(2/4) 現在の科学思想が絶対的ではない

 
 
古橋 信孝 *
 

 証拠をあげ、論理的に証明するのが科学であるという意味で、自然科学と人文科学はほんとうはあまり違わないのではと思っている。ただ、人文科学は人間や文化などを扱うゆえ、不明瞭の部分が残る。人間や社会、文化が論理的ではすまないものをもっているからだ。この問題は、人文科学が古来さまざまな方法、視覚を生み出し続けていることによっても示されている。

 しかし、ガリレオの地動説に象徴されるように、自然科学も見方、つまり文化によってもたらされた。最近の遺伝子による見方もそうだろう。本能といわれてきた見方が変えられた。このような自然科学の発達はガリレオやメンデル以降のものである。いわゆる自然科学への見方が成立して以来のものなのだ。ということは、自然科学的なものの見方ははたして普遍的なものだろうかという問いが出てきてもいい。

 現代の自然科学的な見方優勢の状況は、たぶんに生活における意識が支えている。いわゆる科学的な合理的な説明が説得力をもって聞こえる。だが、われわれの行動は必ずしも合理的なものではない。社会の動きもそうだ。それに、指紋が一人一人異なるように、同じ人は絶対にいない。同じ親が産んだ兄弟姉妹も親にそっくり同じだということはないし、兄弟姉妹同士も違っている。そのように、普遍というレベルは何かを選んで共通性を導き出したものである可能性がある。文化が変わっていくのは、たぶん、この人間はすべて異なるというところに依拠している。歴史がそれを証明している。どんなに正しそうな見方もいずれ変わる。この問題は、科学的な普遍性も絶対的な真理ではないことを思わせる。

 人文科学の難しさは、このように変化していく社会や人間を客観的に論じることの危うさを抱え続けねばならないところにある。私自身、若いころから文学研究を普遍的なものにすることを考えてきた。そのとき、普遍性の限界点までいってみようと考えていたのだった。そして余るもの、残るものが本質的なものかもしれないと思えた。そこから人間や社会を見直せば、まったく違うものがみえるのではと考えたのだ。

 今回のシンポジウムで考えさせられたのは、われわれの考えている普遍性はけっこういいかげんな、楽天的なものではないかということだった。宇宙や地球規模で考える普遍性はもっと厳しいように思える。永山氏が「趣味」といっていることは、その楽天性に由来しよう。遺伝子学の進歩が人間にとって 恐怖になりかねないようなことに対する警告である。文化が歯止めにならねばならないという。しかし、自然科学も文化である。自然科学の恐ろしさはそれに携わる者こそよくわかっているはずだ。先に述べたように、社会の自然科学志向を変えない限りどうにもならない。人文科学はむしろ社会の有用性とは異なるところにある。それは本来自然科学も同じはずだ。したがって、歯止めなどの問題は社会の共同性として考えていく必要があると考えている。