パネルディスカッション(3/4) 科学技術に踏み込む人文学
では続きまして、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授の小林傳司さんよりご提言をお願いしたいと思います。
コミュニケーションデザイン・センターとは何だ、そんなものが大阪大学にあったのかと思われる方も少なくないと思いますが、2005年4月にモノレールの「万博公園駅」前のビルの3階に開設されました。一言で言いますと、専門家と非専門家の間をつなぐコミュニケーションの在り方を考え、そしてまた、学生とともに、あるいは市民とともにコミュニケーションの実験を実際にやってみるという、教育と研究のセンターです。
いま医療の現場でも専門家と非専門家をつなぐ「インフォームドコンセント」がありますが、これは実質的にはほとんど機能していません。お医者さんが患者さんに従来以上にいろいろなことを詳しく説明してくれるのですが、とくに高度医療の場合には、圧倒的な知識の差というものがあって、いくら説明されても、患者のほうは実質的には判断力がないわけです。私が手術を受けたときもそうでした。私たち患者は、お医者さんの顔やふるまいをじっと見て、この人は信用できるか、いいお医者さんかというような判断ができる程度です。
同様に、たとえばごみ処理の問題をめぐって、あるいは原子力発電所の廃棄物処理をめぐって、また地域の問題や町づくりをめぐって、いろいろなところで研究者や行政の方、企業の研究所の方と市民の間に乗り越え難いコミュニケーションギャップが起こっています。そのようなわけで、このセンターは専門家と非専門家の間をつなぐコミュニケーション、それを媒介するメソッドにはどういうものがあるのかを多角的に考え、開発していく研究機関として創設されました。ここに、科学技術コミュニケーションのリーダーとして、南山大学から小林さんが招かれたわけです。
小林さんは科学技術コミュニケーションでは日本のフロンティアで、社会における科学技術の在り方を、人文学的な観点から問題にされています。原子力発電所をめぐる、あるいは遺伝子組み換え作物の安全性をめぐる問題などで、研究者と市民のパネルが向き合って話し合いをするコンセンサス会議を、日本で最初に実施された方です。その背景になっている科学技術社会論学会(STS)という非常にアクティブな科学技術をめぐる学会がありますが、その初代の会長でもいらっしゃいます。
ちなみに、小林さんの次にご発表なさる野村さん、それから先ほどの嘉田さんの三人に共通していますのは、大学時代に勉強された学問から、大学院で本格的に研究に入られるときに、ぐっと違うディシプリンにトラバーユされた方でございます。小林さんは当初、総合地球環境学研究所の日高敏隆所長のお弟子さんでした。生物学を専攻されていたのですが、科学哲学の研究のほうへ移られた。理系から文系へ移動をされた方です。
それでは、「科学技術に踏み込む人文学」というタイトルでお話いただきます。
最初に「歩く人文学」ということについて、私の漠然としたイメージを一言申し上げておきますと、やはり人文学というのは、もともと旅する人の学問だったのだろうということです。ソクラテスなどのギリシャ哲学はもちろんですが、それ以降のルネッサンスの時代においても、大学の中には人文学者はあまりいませんでした。人文学者はどちらかというと大学の外側にいて、アカデミーや知的共同体などでサークル活動のようなことをしていました。また、当時は、建築家などのように社会の中で具体的に活動をしている現場知、あるいは大航海時代の知見を持ち帰ってくる商人など、そういう人びととの交流を通じて人文学というものが生まれてきたという歴史を持っています。ですから、逆に言いますと、大学の研究室や書斎にこもって人文学的な思索にふけるというようなスタイルは、意外と新しいものなのかもしれません。
現代は恐らくもう一度、人文学に対して新たな薪のようなものをくべるべく、社会に出て、社会の中の問題を聞き取り、それについて自分で歩いて考える。体を少し動かして考えることが必要な、時代の転換期なのではないかと思います。また実際、江戸時代、とくに幕末期の日本の文人、学者たちがどれほど旅する人であったかということを考えてみればいいのではないかと思います。
私自身は理学部の出身で、その後科学史、科学基礎論というものに転身しました。というよりも、本当のところは実験が下手で科学者になれなかったのです。私が実験をするとデータがぐちゃぐちゃになってしまい、しかも口だけ回っているというので、まさしく日髙敏隆先生から「口を動かす前に手を動かそうね」と言われた口です。それで私はあきらめたのです。もともと少し文系的な感覚があって、理系の大学院ですが中身は完全に文系的なところで、科学哲学を学んできました。
私はいまご紹介がありましたように、「コンセンサス会議」に関与しました。これは市民参加型のテクノロジー・アセスメントの一種です。社会的には、科学技術に関してさまざまな対立があります。たとえば原子力発電所や遺伝子組み換え農作物などに対して、反対する人がいる。そして一方では、これをどんどん推進することが日本の発展のためになるということで、研究費がボンボン下りているような状況があります。
こういったタイプの問題がありながら、専門家の間だけ、あるいは行政関係省の間だけで、科学技術政策がどんどん推進されていっています。しかし、現在、世の中は科学技術の産物であふれかえっている。ですから、その産物に関して消費者であり受益者であり、場合によっては被害を被るかもしれない人びとに何の発言権もないのはおかしいことです。
ヨーロッパでも同じような問題意識があり、社会的に対立のある科学技術について考えてみたいという人を一般市民の中から公募して、推進側、反対側、いろいろな懸念を持っている専門家、それを推進しようとしている専門家とディスカッションをするのです。そのうえで、市民だけで技術評価のレポートを書きます。新たな科学技術を社会にこれからどういう形で持ち込むのか、あるいはやめてほしいのか、持ち込むとしたらどういったことを考えてほしいのかということをレポートで書くというやり方が、ヨーロッパで開発された「コンセンサス会議」なのです。それを私たちは日本で最初にやりました。
この「コンセンサス会議」の一回目は、全国規模ではできませんでした。というのは、一九九八年に開催したのですが、知的セクターはそうしたものに対して冷え冷えとした雰囲気だったのです。とくに科学哲学のような領域からは、酔狂なことをしている、あいつらあほではないかという反応を受けましたし、研究費もまったく入手できませんでした。ですからほとんど手弁当でしたが、ローカルバージョンとして初めて行ったのが九八年で、その発祥の地は大阪でした。大阪で遺伝子治療をテーマにして細々と始めたというのが、日本のコンセンサス会議の最初です。
しかし、二〇〇〇年には農水省がお金を出して全国版の会議を行うところまで来ました。現在では、「コンセンサス会議」をネットで検索すると、相当なヒット数が出るようになりましたので、たかだか七~八年で隔世の感というのが、正直なところです。
そして、そのようなことをやっている間に、科学技術社会論学会(STS)というものを作ろうと思いました。 Science, Technology and Society の略語です。
設立趣旨はこのようなことです。二十世紀が科学技術の世紀であったことは間違いがありません。科学技術は人類が進化してきた長い時間に徐々に獲得し、適用してきた生活スタイル、あるいは価値観と衝突するほどの猛スピードで発展しました。そして、そこからさまざまな問題が出てきました。ですから、二十一世紀は科学技術と人間社会の間にもう一回、新しい関係を作り直さなければいけないだろう。このような問題意識で歩き出したといいますか、踏み込んだということになります。
ここからは私の個人的な思いをお話したいと思います。なぜ、私が科学技術に踏み込もうとしたのかということです。
まず一つ目です。私は科学哲学をやっていますが、この分野では、日本では少なくとも一九九〇年代まで西洋の文献ばかりを扱っていました。猪木さんも先ほど「アメリカのものを持ち込んできて……」とおっしゃっていましたが、まったく同じ構造です。イギリスやアメリカの科学哲学者の論文を読み解いて、それを消化して紹介していく。そしてささやかな新知見をつけ加える程度のことを、日本語で書いていたのです。
どうして西洋人の書いたものばかり、西洋の事例を使った分析ばかりを、われわれはフォローしなければいけないのでしょうか。日本に科学技術が一切ないというのであれば仕方がないのですが、日本は世界に冠たる科学技術大国です。なのに、どうして日本の事例を誰も研究しないのかというのはかなり深刻な問題として私は感じていました。それが一つです。とくに哲学系がそうですが、日本の人文系はやはり洋学者としてのトレーニングを受けてしまいます。英語の論文を引用するほうがいいという教育をされてしまうのです。日本人の論文よりも、英語の論文を引用しなさいという。こんな馬鹿らしいことをいつまでやるのかと思いました。
このような問題意識を持つことがなければ、私はコンセンサス会議などに取り組まなかったでしょう。そして、コンセンサス会議もヨーロッパにおいてはもう行われていることを解説して、最後に「日本でもこのようなことに取り組むことが望まれる」というようなことを書いて終わっていたと思います。しかし、もうそれではだめだろう、ごちゃごちゃ言わずにやったほうがいいのではないかと思って踏み込んだわけです。
そして二つ目は、適切な抽象度です。この分野では、どうしても大所高所から科学技術について語る議論が多くなってしまいがちです。つまり、よくあるのは、人類の持っている科学技術の現在の在り方というのは理性のかなり一面的な使用であり、自然を収奪し、そして人間性の本来の姿を傷つけるようなものではあるまいかといったタイプの論評です。しかし、ではどうするのかという議論はほとんど出てこない。つまり、問題に応じた適切な抽象度というのが必要ではないか。
漫才コンビのダウンタウンが、まだ漫才をやっていた時代に使っていたギャグがあります。衛星ひまわりが撮影した画像写真を見て、松ちゃんが「あなたのお子さんは癌です」と診断するのです。それを見ていて、結局われわれがやっていることはこれではないかという気がしました。癌の診断にはどう考えても不適切なひまわりの衛星写真のレベルで議論している。日本の科学技術について、衛星ひまわりよりもっと地べたに下りてこないと見えないレベルの議論を誰もやっていないということを思いました。
それから三つ目は不易と流行ということです。ここはなかなか微妙なところですが、たとえば大学という存在は、その時代、時代の社会的な風潮を完全に受け入れてしまうようなやり方をしてはならない組織だと思います。つまり、過去の知的伝統、財産というものを保存、継承する機能が、非常に重要なものとしてあります。そして、それをオーソライズし、典範化するような権威化機能も大学の中にあります。ただ、それだけではだめなので、同時に、やはり社会の動きに対してある反応をしなくてはいけない。ですから、それに対して緩やかに、やや時代遅れ的に、保守的にだけれども取り入れていくというような機能を大学は持ってきました。
ですから、先ほど言いましたヒューマニストたちは、もともと大学の外にいたのにいつの間にか中に入ってきました。また、サイエンスもかつては大学の外にありましたが、いつの間にか大学の中に入ってきています。経済学も多分そうだと思います。それから、工学が典型的です。かつては煙と音の出るような学問は大学にはふさわしくないとされ、工学は大学になかなか入れなかった。アメリカの大学もヨーロッパ的なイメージを持っていましたから、マサチューセッツ工科大学はマサチューセッツ・インスティテュート・オブ・テクノロジー(MIT)であり、ユニバーシティとは名乗らせてもらえなかったのです。世界で最初にユニバーシティの中に工学を入れたのは、日本の東京大学です。そして、いまでは世界中どこでも工学をちゃんと大学の中に入れています。
このように、やや保守的だけれども、社会の声、要求に対してレスポンスする。そして、伝統的な知識をきちんと継承していくという、二つの役割のバランスの問題が、大学にとっては非常に微妙なところだと思います。
そういう意味では、不易だけではなくて、やはり流行も少しは必要であり、現代社会の重要問題を扱わなくていいのかということです。恐らくいまから五百年後の歴史家が二十世紀、二十一世紀を見たとき、科学技術という巨大な営みがこの時代を象徴するものであったと記述することは、ほぼ間違いないと私は思います。そして、実際に科学技術におけるさまざまな産物は、われわれの日々の生活、あるいはわれわれの将来に対して、決定的に大きな影響を与えるでしょう。年金制度と同じく、われわれの未来に対して間違いなく大きな影響を与えます。それに対して、議論しなくていいのかということです。
その意味では、アメリカの存在とよく似ていますので、こういうことを考えたことがあります。将来の歴史家が、二十世紀をアメリカの世紀と描くであろうことはおそらく間違いありません。そして、現代においてもアメリカというのはきわめて巨大な人類史的存在だと私は思います。ところが日本に「現代中国学部」はあっても「アメリカ学部」というのはありません。アメリカ学会というのは一九六六年にできているそうですが、アメリカ学部がない。これを研究しなくていいのだろうかと、私は思っています。
では、もし「アメリカ学部」を作るとしたら、皆さんはどういうことをイメージされるでしょうか。たとえば「アメリカ学部」の教員は全部アメリカ人でなくてはいけないか。そうではないでしょう。教員が全部アメリカ人というのはありえません。それから、アメリカ学部に入った人間の出口はどうなるか。アメリカ人を作るための学部というようなことになるか。そんな学部になるわけはありません。
いまのはたとえですが、それと同じような意味で、科学技術そのものに対して研究し、議論することも可能なはずだということです。
私どもが1991年に出版した本の中に、STSは将来的にこのような発展をすべきだろうというようなことを書いています。いまから見ればかなりはずれた部分もありますが、当たっている部分もあります。新技術の経済とかいうものが、最近MOT(Management of Technology)といった言葉で出てきていますし、科学啓蒙などという言葉もあります。科学技術倫理というのもあります。人材育成論や報奨システム、社会学など、要するに既存の人文社会系の学部の名前の上に、全部「科学技術」がつけられています。全部成立するだろうと思いました。ですから私どもは、本の中で「STSというのは科学技術の社会的側面についての人文・社会科学的な研究・教育である」というように定義しました。
それから十年後に、先ほど触れた科学技術社会論学会(STS学会)を設立したのです。われわれは、科学技術というのが結局、人文社会系の学問に全部またがった存在になっていると考えています。それだけでなく、ジャーナリズムやメディア、教育、一般市民の役割まで、常に考えなくてはいけません。科学技術はそれだけの巨大な存在になっています。
また、科学技術というのは、単に一つの国家だけではなく国際的な関係まで念頭に置かざるをえないような側面を持っています。たとえばBSE(狂牛病)でも、アメリカとの政治的関係から日本が輸入を再開するかどうかという問題が出てくるわけで、国内だけで閉じた議論では終わらない。地球環境問題もその典型の一つです。
そのような認識の下に、科学技術と社会の界面に生じるさまざまな問題に対して、真に学際的な視野から、批判的かつ建設的な学術的研究を行うというように、武張った文章を書いたのが学会の設立の年、二〇〇一年でした。
こういったことをやりながら、いま思っていることを、とくに人文系の方々に対して言いたいと思います。私自身のアイデンティティも人文系のほうにあるのですが、あえて言います。現在の人文系の人びとの科学技術観はかなり貧困だと思います。認識が単純でステレオタイプであり、問題があると思っています。そうしたことを教える教育がないわけですから、ある意味仕方のないことなのですが。
理工系研究者というのは、恐らく日本の社会の中でもっとも大きな専門家集団です。人文系の研究者数などはたかが知れています。圧倒的に多いのは理工系の専門家のほうです。世界的に見ても、就業人口当たりの研究者の数は日本は世界一です。アメリカより多いのです。その中でも理工系の人たちが多い。そこで、この人たちのアクティブな活動に対して、われわれはどう対応するかということになります。やはり彼らとの対話を避けてはいけない。しんどいですが、やらなくてはいけない。
それからもう一つは、いまのところ応用倫理などで対話あるいは議論はかなり出てきているのですが、私が不満なのは、後追い対応です。つまり、科学技術の何かが開発されて、それが社会に適用される。そして、問題が起こったら、さてどうやって規制しましょうか、どういうガイドラインを作りましょうか、と全部後追いになっている。しかし後追い対応だけでいいのだろうか。もう少し踏み込むべきではないか。はっきり言いますと、科学技術の開発において、研究の現場のレベル、最初の上流の部分のところで、もう少し対話を入れるべきではないか。社会科学的な、人文的なインプットがもう少し入ってもいいのではないかと思います。
最後にもう一つだけおまけを述べます。ある工学系の先生が、大学院生向けの科目を作ろうとなさいました。そのときに、やはりこれからは社会とのコミュニケーションが工学教育においても必要だろうと思われて、私に依頼してこられました。ただ、何もなしで依頼するのは失礼だろうとお考えになって、あるシラバス案をお書きになられたのです。それをちょっと読み上げてみます。「すべてのコミュニケーションにおいて構成要素として挙げられるものは、情報の発信者、情報の主題、情報の受信者である。ここに現代のコミュニケーション戦略においては、受信者の行動によって生じる反作用を発信者へフィードバックすることで戦略的なコミュニケーションが実現されるとしている。この外場に対する応答に関する理論では……」
技術と社会のコミュニケーションを考えるという局面で、これではやはりあかんでしょうと私は思いました(笑)。やはりこうした場面では人文学や社会科学の人たちが出てこないといけません。工学というのは、フルセット型の学問ですので全部自分のところでやろうという発想があり、その精神はたいしたもので、こうして踏み込んでおられるわけですが、これは何とかしてあげないといけないのではないかと思った次第です。