No.104 - 第5回人間文化研究機構日本研究国際賞者 柴谷方良氏インタビュー

柴谷方良 米国ライス大学ディディ・マクマートリー人文学教授・言語学名誉教授、神戸大学名誉教授インタビュー

 

 柴谷方良ライス大学ディディ・マクマートリー人文学教授他は、日本語学と一般言語学・言語学理論・アジア諸言語学等の分野において、半世紀以上にわたり国内外で研究を続けてこられた研究者です。第5回人間文化研究機構日本研究国際賞の受賞に関連して、本インタビューでは柴谷先生の専門分野のお話と共に、日本とアメリカの研究環境等についてお聞きしました。

第5回人間文化研究機構日本研究国際賞の授与式
(左 木部機構長、右 柴谷先生)

 

・アメリカで言語理論を研究するまでの経緯

 中学生の頃からなぜか英語が得意で、高校を卒業して民間会社に就職してからもYMCAに通うなどして英語だけは勉強し続けていました。日本人にとって英語の習得は難しいため、もう少し良いやり方があるのではないかと思い、英語教育や英語習得に興味を持ちました。当時は構造言語学という枠組みが主流で、そういったものを応用した英語教育の教科書がありました。「ミシガンメソッド」と呼ばれるミシガン大学の言語学者による書籍やその和訳版を日本にいる頃から読み始めました。

 言語学的な方法もしくは解明により、英語習得を易しく出来るのではないかという思いを胸に、カリフォルニア大学の言語学科に入学しました。ところが、言語習得に興味を持つ先生は心理学部や教育学部にいましたが言語学科にはおらず、もっぱら言語の分析や理論の授業がありました。これらに取り組み始めると興味深く、脱却できずにいるというのが私の現状ですが、それ以外にも思うところがあります。

 1980年代から2000年代にかけて言語習得の研究が盛んでしたが、最近は下火になりました。これは言語理論の流行や衰退とも関係し、これが言語理論自体を進展させなければいけない理由です。言語習得も含め、応用的な研究は入り易い印象がありますが、一歩踏み込み、ある定度のレベルに達すると、それ自体の理論開発が必要になり、やはり難しい分野だと思います。応用研究の分野で本当に成功するためには、理論もできて、それを応用に展開する能力が必要で、理論研究より高度な資質が問われるという思いがあり、おいそれと踏み込めない分野だというのが私の認識です。

 

・理論研究の魅力

 一見バラバラに見え、そのように従来取り扱われてきた現象がひとつのものに統一でき、他の人達が見たことのない、見晴らしの良い美しい景色を見られるという喜びです。基本的には、混沌、無秩序(カオス)に見える世界に秩序を見出すのが理論研究であり、データと自分の頭とのせめぎ合いがなんとも言えない苦悩と快感をもたらします。

 

・言語理論研究の具体的な活動と課題

 ひとつの問題を解くと、その後は研究の成果を講義したり、書いたりという、人に分かりやすく伝える作業があります。ただ、誰にでも先入観があり、これが学界内での学問的議論のみならず、クラスにおける講義においても、さらにはより実践的な問題の解決をも難しくしています。後者について述べると、私たちの分野では、学校文法が言語についての先入観を植え付けています。ところが、子供たちが中学校・高等学校、さらには大学に至っても習っている文法事項の多くが修正または破棄されなければならない状況にあります。私が記念講演で取り上げた問題でも、例えば「連体形・連体詞」という用語、そしてそれが関与する構文、「関係節」といったものには、体言(名詞類)に連らない用法(例「私のは、これです」)、また関係節(連体形が明らからな古文の例「落つる水」)においても名詞を修飾しない構文(例「水の落つるを眺む」)もあります。このように、こと文法に関しては、用語から分析まで全てが再吟味の対象となり、理論研究の成果による文法書の書き直しという作業が待っています。

 教科書というものは、一般的に古い考えを踏襲する傾向があって、誤謬や不十分な分析が多く繰り返されています。教育に携わる者には、そういったものを正して、より真理に近いものに持っていく不断の努力が問われます。先程触れた、新しい発見という理論研究がそのような努力の基になります。

 

・柴谷先生の研究の目標である「人類が使用する言語の範囲とその特定を見極め、社会に提示する」意義

 二つのレベルでの意義があります。まず、社会的な意義についてですが、理論研究を進める上で大事になるのが、これまでに研究されなかった言葉や、死滅寸前の言語といった様々な言葉のデータです。特に、死滅寸前の言葉を記述して分析することには非常に大きな意味があります。言語の消失は、人類の文化遺産がなくなることと同じです。6,000にのぼる地球上の言語の80%から90%に及ぶものがそうした状況にあり、次の100年のうちにこれらのマイノリティー言語がなくなると言われています。その理由として、少数言語は偏見を持たれ、就職などに役に立たないといった問題があります。

 最近でこそ少なくなってきたものの、日本のマイノリティー言語、つまり方言やアイヌ語それに琉球諸語は虐げられてきました。かつて東北から上野に出てきてズーズー弁を話すと、皆に笑われ卑下されました。地方の人が言葉に対して非常にコンプレックスを持った時代がありました。自分の言葉(母語)を隠したり、失ったりするということは、話者のアイデンティティーの否定・喪失にも繋がります。これは過去の日本だけの問題でなく、北・南米、台湾などでも、独自の言葉・文化の喪失感に起因するアルコール中毒や薬物乱用などの今日的問題が続いています。

 こうした社会的問題に対して、我々の研究は地元の復権に繋がります。研究目的の言語資料の収集で現地に赴くこと(フィールドワーク)で、私たちは「あなたの言葉を調べることで、理論的にこういうことが分かるようになります、分かりました」と地元社会に向かって報告できます。つまり、言語学者は日の当たらない言葉の肯定的な価値を具体的に示すことができるのです。そのようなことが自分の言葉に対する心情を否定的なものから誇りや愛着、愛情といったものへと変えていくことに繋がります。このような心理的な向上に加えて、言語学者の協力による教科書の作成や会話教室などによって、アイヌ語や琉球諸語、そしてアメリカ・インディアンやインド、オーストラリアの少数言語などのように、マイノリティー言語の回復・維持への機運が世界的に高まってきています。

 一方、言語研究の人類的意義としては、「人間とは何か、言語の存在が人類と他の動物とをどう区別しているのか」という大きな疑問への鍵を我々が握っていることが挙げられます。生物学的にはチンパンジーと人間とはほとんど変わらず、DNAの1.23%しか違わないそうです。けれども我々とチンパンジーは色々な面ですごく違います。その違いを創出している重要な要因が言語であり、その解明、つまり言語の成り立ちや「人類言語にはどういう可能性があり、どういう制約が働いているのか」といった人類言語の普遍特性を突きとめることは、人類と他の霊長類との区別を示すDNAの1.23%の相違そのものの違いの理解にも繋がる可能性があります。

 人間と他の動物とを峻別している一大特徴は、複雑な伝達システムの有無です。ミツバチもかなり高度な情報伝達システムを有し、ミツバチに加えて小鳥なども人類言語と同様、方言を持っていたりするが、それでも人類言語のように無限数の発話が可能な動物言語は今のところ見つかっていません。動物の伝達システムと人類言語の連続と乖離の解明は、人間がどれだけユニークな種であるかということの理解に直結します。

 このように、世界の言語の文法を記述し、言語の理論的研究を推進するということには、社会的意義と共に人類的意義があるということです。

 

・アメリカと日本の研究環境

 私はカリフォルニア大学を卒業後、南カリフォルニア大学で6年、神戸大学において23年、そしてその後アメリカに戻ってライス大学で19年教鞭をとりながら研究生活を送ってきました。このように、二つの違った環境においてほぼ同じくらいの時間を過ごし、日本とアメリカでの教育・研究環境の違いを経験することが出来ました。研究環境という面に絞ると、人員配置・研究予算の配分という点と研究に当てられる時間という二つの課題があります。

 アメリカの大学では、従来の日本の大学で見られたような教養部と(専門)学部との垣根がなく、教員の殆どが学部に属し、専門教官が教養部・学部(現行制度では従来の教養部を基盤にした新設学部と従来の学部)別に配属されることはありません。したがって、言語学のような比較的狭い分野でも博士号を出す学部には少なくとも7、8人の教官が配置されています。これに対して、従来の講座制を基盤にした日本の学部では言語学などはせいぜい2人から、多くて3、4人という構成です。日本の大学院で教えていて一番驚いたことは、そのような体勢にありながら、3年で博士号を出すよう奨励されたことです。というのは、アメリカのように教官配置が比較的充実していても、言語学を含めた人文・社会学科では博士号取得には通常少なくとも5、6年はかかるという状況を体験しているからです。このことから、博士論文と言われるものの日米間の内容・質の相違も推しはかられることと思います。

 米国の大学では、冠講座教授など特別な教授職についていない限り研究資金ついては、年に一度か二度の学会出張経費ぐらいしか学校・学部からのサポートがありません。研究経費はもっぱら日本学術振興会(JSPS)に相当するアメリカの国立科学財団(NSF)や国立衛生研究所(NIH)などに申請しないといけません。一方、日本の大学では、従来運営経費という名目の研究費が各講座に配分されていて、この点においては日本の大学の方が恵まれていたといえましょう。ただ、近年この運営経費が徐々に削減されてきて、研究資金は学振などからの外部資金の調達が基本となってきているようで、この点は日米が似通った状況になってきました。人間文化研究機構に属する研究所などでも、毎年数パーセントの予算カットが求められていて、予断を許さない状況にあるようです。

 NSF、JSPS共に一般研究の採択率は30%弱ですから、これらの機関からの資金獲得のためには相当の研究実績が求められますが、それに直結する研究時間の確保という点では、日米に大きな差があります。日本では最近研究に直結しない仕事が非常に増えてきて、研究に割ける時間が少なくなったという苦情をよく聞きますが、アメリカでは研究時間の確保は比較的に安定した状況にあります。アメリカの研究重視の大学(いわゆるresearch university)での若手教員は、だいたい教育50%、研究40%、その他の学内業務10%の割合での時間配分が暗黙の理解というような状況にあります。授業担当時間数は、私の居たライス大学では、人文学部と社会学部とでは違っていて、前者では秋・春学期共に二科目担当で、一週間で5時間、言語学科が属している社会学部では二科目・一科目という組み合わせで、一学期は週5時間、別の学期が週2.5時間と、比較的恵まれた担当時間数になります。これら担当科目のうち、半分は大学院の授業ですから、こちらは担当教官の個人研究と直結している場合が多いので、それにあてる時間はほぼ自身の研究時間と言えます。また、アメリカでは、日本のような非常勤講師として出向するということは通常ありません。

 一方、学内業務についは、言語学部のような小さな組織ではほぼメールでやりとりをし、月に一度か二度の教授会は1、2時間で終わります。その他、学生の個別面談指導や、推薦書の作成などがありますが、これらは大きな負担ではありません。

 夏の3ヶ月に及ぶ夏季休暇は給料が出ない代わりに(アメリカの大学年俸は、通常9ヶ月ベース)、学校の業務は一切ありません。これ以外に、クリスマスを中心にした冬休みが1ヶ月近くあり、6年間授業担当した後には6ヶ月から1年の有給サバテカルがあります。

 このように、研究大学の教官は通常でも、日々12時間ほどの研究時間に加えて、年間を通しても日本とは雲泥の差がある研究時間を確保しています。実は、それぐらい研究をしないと研究者生活を確保・維持できないというのがアメリカの現状です。運よく大学に就職できても、次のテニュアー(終身雇用資格)を取るのも非常に厳しい。この二つをクリアしないといけないから熾烈な競争になります。競争は研究の質に直結し、その質のためには研究時間が必要だということです。

スピーチ中の柴谷先生

 

・アメリカにおける人文科学の現状

 人文は大事だという考えは、昔も今も同じだと思います。私たちが学部生だった頃は、「学部では色々なことを勉強して下さい」という方針の下で、アメリカでも医学や法学といった実学と言われる分野に進学する学生も異なる分野を広く勉強しました。専門は大学院でやればいいので、学部では広い教養を身につけるという伝統は今でもある一方、昨今のアメリカではSTEM(科学、技術、工学、数学)教育が盛んで、高等学校の授業もこれを重視するようになっています。それはそれで大事なことですが、STEM教育のしわ寄せや、それを推進する上でどういった問題があるのかの議論が十分に行われていないきらいがあります。

 STEM部門での発展は、倫理や道徳、人間的なものと一緒に進まないと非常に危険です。すでに、人工知能(AI)、遺伝子操作、さらにはSNS等の規制の問題が取り沙汰されていて、適切な規制基準や判断が模索されています。賢明な判断の拠り所になるのが人道的、人文的な価値観です。科学や技術が発達すればするほど、それらをいかに人道的にやっていくかという点で、人文はますます大事になるということを我々は声を大にして発信しなければなりません。

 

・若手研究者や学生へのメッセージ

 まず、なんでも疑ってかからないといけません。先生の言うことや読んだ論文を信じるな、ということです。教えられたこと、読んだことでは、関連性が伺えるデータが統一的に取り扱えないじゃないか、もっとより良いやり方があるのではないか、といった批判的態度が研究の出発点です—もちろん、先行研究を十分理解したうえで。人の言ったことに同調・追従するのでなく、人と違うことをやりたいという気持ちが独創性のある成果をあげる上での重要な要素です。

 自分の直感を信じて、大事にしてほしい。直感(gut feeling)が閃けば、研究の80%はできたことになります。具体的成果が出せても、出せなくても良い。良さそうな閃きが誤っていることを証明することは、先行研究の不備の検証と同種類の作業で、そこから新しい研究が始まります。また、直感はそのような過程を繰り返すことで、ますます研ぎ澄まされます。

 直感は少々傲慢なものでも良い。傲慢であれば、あるほど、それを正当化するための幅広いデータの収集に力を注げば良い。そして、データが我々に話しかけていることに今度は謙虚に耳を傾けながら、自分の直感とぶつかり合わせて、議論を組み立てていく。このような手法で、自分の考えを極限まで追い詰めながら結論を出す、これが理論研究の醍醐味です。

 

(聞き手:大場 豪 人間文化研究機構 人間文化研究創発センター研究員)